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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史11

2012
やっぱり大人はジャケットでしょ!
 
20代でストリートとモードの両方を通過し、ファッションに敏感な30〜40代の男性をターゲットに集英社の『UOMO(ウオモ)』がリニューアル。メンズノンノで長年活躍していた日高麻子編集長によって、スタッフやモデルを刷新。それまでのレオンの二番煎じ的なポジションから脱却させ、メンズノンノ育ちのファッション好きの大人を納得させる、キレイめの都会派おじさんを模索していくようになる。新装刊4月号の表紙は木村拓哉で、特集は“大人顔ジャケットが攻めてきた!”。数年前から盛り上がっていたネオ・アメトラはもちろん、モード系、イタリア系、東京ブランドまでをミックスしながら、幅広いスタイル提案がなされた。起用する外人モデルはルックスも体型も完璧なプロモデルではなく、あえて素人モデルを起用することでリアリティを重視したことも大きな特徴となった。これはスタイリスト山本康一郎氏による発案で、他のエディターもこの手法を取り入れた。ちなみにセンス編集部を辞めてフリーランスになった私にとって、ウオモのリニュアルに関わったことがキャリアの足がかりになった。
 
一方、70年代に用いていた「シティボーイ」というキーワードを復活させ、ポパイも大幅リニューアルした。木下孝浩編集長の手腕によってスタッフを一新し、ヴィジュアルとテキストも独自の世界観で表現。モデルは従来の白人モデルだけでなく黒人モデルも起用し、年齢はあえて10代後半から20代前半。実際の読者層は20〜30代なのでやや説得力に欠けるキャスティングだと思っていたのだが、東京で今を生きることを楽しむイノセントな男性像を10代の彼らに託すことで、型通りの大人になりきれなかった「こじらせ中年男性」のハートを鷲掴みにしたのだった。以後も、スタイリストの長谷川昭雄によるスウェットやシャツの極端にオーバーサイジングな着こなしが業界関係者を中心に人気を博し、浅草や神田といったロケ地でのローカルグルメ紹介などの企画が定番化してゆく。
 
 
エディ復活と人気メゾンの動向
 
長年ファッションの最前線から退き、フォトグラファーとして活動していたエディ・スリマンが、再びイヴ・サンローランのクリエイティブディレクターに就任。ブランド名からイヴが外れ、「サンローラン バイ エディ スリマン」という長い表記に変更される。以後、ジバンシィ バイ リカルド ティッシなど、ブランド名+デザイナー名で表記するブランドが増えるきっかけとなった。肝心のクリエイションの内容はディオール・オムと大差なく、やはりここでもタイトなシルエットが継続。ロックテイストはやや後退して、リアルクローズに近づいたことは評価できるものの、大きな期待がかかっていたぶん、やや消化不良な印象を抱かせてしまった。
 
2003年には7640万ユーロもの営業損失を記録していた赤字メゾンだったサンローランを、2011年には4090万ユーロもの営業利益をもたらす黒字メゾンへさせたデザイナーは、エディではなく前任者のステファノ・ピラーティだった。テーラリング技術を活かしたクラシックスタイルをベースに、ウェアラブルでありながら多彩なシルエットやスタイリングの提案で、ファッションジャーナリスト界隈からは高く評価されていたし、YSLというアルファベットを組み合わせたカサンドラロゴをヒットさせて商業的にも成功を収めていた。だが、生前のムッシュ・サンローランは「いいものもあるが、あまり良くないものもある」とピラーティを突き放したそうだ。地味ながらも確実にメゾンを再興させた立役者に対して、あまりに冷たい対応だった。
 
また、人気メゾンの動向で目立ったのが、「ルイ・ヴィトン」メンズのアーティスティックディレクターにキム・ジョーンズが就任したことだった。マサイ族の伝統的な赤と青のチェックを取り入れたデビューコレクションは高く評価され、好スタートを切った。また、長年ジル・サンダーを支え続けてきたラフ・シモンズが「ディオール」ウィメンズのアーティスティックディレクターに就任。一方で、ランバンのルカ・オッセンドライバー、ジバンシィのリカルド・ティッシなど、エディ退任後のパリを牽引してきたデザイナーの名前が雑誌に登場することは少なくなった。グッチとプラダの大ブレイクからエディ一強時代を通過してきた私は、コロコロと変わるデザイナーとブランドイメージの乖離に辟易していたし、もはや特別な関心を払うようなことはなくなっていた。
 
 
ドーバー・ストリート・マーケットが銀座に
 
2012年に惜しまれつつ閉店した表参道のコルソコモに変わって、エッジの効いた国内外のブランドだけを取り揃えた大型店「ドーバー・ストリート・マーケット」(DSMと略す)が銀座にオープン。2004年にロンドンでオープンした同店の2号店で、コルソ・コモ同様に川久保玲がディレクションを手がけた。コム・デ・ギャルソン社が手掛ける各ブランドはもちろん、アンダーカバー、カラー、ビズビムといった国内ブランド、リック・オウエンス、ラフ・シモンズ、マルタン・マルジェラといったデザイナーズ、ヴァレンティノ、ルイ・ヴィトン、バレンシアガまでも取り揃えた。後にオフホワイトやシュプリームなどのストリート勢も加わることで、DSMの店内を回遊すればメンズファッションの最新動向が手に取るように分かるラインナップが魅力となっている。隣のビルにはGUとユニクロの大型店もオープンし、超高感度でハイエンドなセレクトショップと国民的ファストファッションブランドのショップが隣り合うという光景は、ハイエンドとローエンドに二極化していくファッションの未来を予見させるものでもあった。
 
 
複雑化と多様化を遂げるヒップホップ
 
メロウかつアーバンな雰囲気のトラックとダラダラと喋るような独特なスタイルで、世界的な大ブレイクを果たしたカナダ・トロント出身のラッパーのドレイクに続き、同郷のザ・ウィークエンドがメジャーレーベルから『トリロジー』を発売し、シーンの最前線に躍り出る。CDで3枚組というボリュームながらも本作は大ヒットとなり、オルタナティブR&Bの代表的アーティストとして認められるように。一方のLAから飛び出したのはヒップホップホップコレクティブ(ラッパー以外のトラックメイカーやマネージャーやデザイナーを含めた集団)と称されるオッド・フューチャーからソロデビューしたフランク・オーシャンだ。元々オルタナティブ嗜好が強いトラックメイカーだった彼のデビュー作『チャンネル・オレンジ』は、高いストーリー性と型破りなソングライティングを併せもち、根っからのヒップホップファンのみならずロック・ダンス系のファンからも幅広い支持を得た。また、ヒップホップシーンでは忌み嫌われるゲイであることをほぼ公然と認めたことも大きな注目を集め、従来のステレオタイプなヒップホップアーティストのイメージを変える存在となった。
 
そうした従来のヒップホップやR&Bから逸脱したオリジナリティを発揮したアーティストが次世代からの支持を得る中、同年発売された『グッド・キッド、マッド・シティ』をヒットさせたケンドリック・ラマーは、彼らとは一味違った本来的なヒップホップの流れを作り出した重要人物となる。次作の『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』は、ラップミュージシャンとしては最多の11部門にノミネートされ、最優秀ラップアルバムなどの5部門を受賞。ヒップホップシーンの最前線をひた走る重要アーティストとして認知されるようになった。あの元大統領バラク・オバマもケンドリックのファンであることを公言しているほどだ。こうしてジェイZとカニエが達成したヒップホップのメインストリーム化の後に登場した彼らによって、ヒップホップは複雑化の一途を辿り、そのファッションスタイルも多様化が進んでいった。
 
 
LINEユーザーがFBユーザーを超える
 
震災時の救急連絡や安否確認で活躍したTwitterをきっかけに、SNSが社会的なインフラとして機能することが広く認知された。後発ながらも圧倒的なユーザーを獲得していったのがLINEで、音声通話やメールよりも気楽に使えて、キャリアを跨いでも無料なことから、若者を中心に広まり始めたのもこの年。まだこの時点では、家族や友人など、親しい間柄でのやり取りに限定されていたが、その後はビジネスシーンでもLINEが利用されるようになっていく。私が関わる仕事領域でもフォトグラファーやスタイリストとの画像共有などでLINEを活用する場面が確実に増えていった。今や数多くのファッションブランドがLINE公式アカウントを活用するようになり、フェイスブックやツイッターに取って代わる新たな情報発信のプラットフォームとして急成長を遂げていく。
 
 
 
2013
普段着が最先端のスタイルになる?
 
アメリカ西海岸サンフランシスコからもたらされた“ノームコア=究極の普段着”が、日本のWEBメディアを中心に紹介され始める。2011年に急逝した、アップル社CEOのスティーブ・ジョブスがその象徴で、イッセイミヤケの黒いタートルネックニット、リーバイスのジーンズ、ニューバランスのスニーカーという出立ちがその象徴となった。中でもニットは同じ型を20〜30着まとめ買いしていたほどのお気に入りだった。いつも同じ格好をすることで余計な時間と手間を省き、仕事で一定したパフォーマンスをもたらす効果があったという。これまでの男らしさの象徴であり、権威主義的なスーツスタイルに変わるものとして、日本のIT系やクリエイティブ系の男性にもノームコアが広まっていった。IBMなどの米国テック企業では、2000年代初頭からビジネスエリートのカジュアル化はすでに始まっていたが、シリコンバレーのカリスマが実践したこの普段着スタイルが取り上げられることで、ようやく本格的に全世界へと波及した。
 
アンチ・ファッションとも言うべきノームコアの登場は、パリやミラノの最新モードを追いかけるのに疲れていたファッション好きの30〜40代にも歓迎された。ライフスタイルに根差した実直で普遍的なベーシックアイテムが、再評価されるきっかけを作ったこともノームコアが大きな役割を果たした。アメトラ復権から引き続く「ブルックス・ブラザーズ」のボタンダウンシャツ、「ニューバランス」のスニーカー、「ジョン・スメドレー」のハイゲージニット、「パラブーツ」のシャンボード、「A.P.C.」のジーンズなど、それまで当たり前のように存在していた普通のアイテムが改めて見直された。ベーシック回帰とも呼べるこの現象によって、トレンドとは関係なくアイテムごとの本質的価値を多くのファッション好きが再発見した。ウオモやポパイといったファッション誌がこうした動きを積極的に紹介し、ファッション系WEBメディアが後追いする現象が現在まで続くことになる。
 
 
Jクルー別注でニューバランス人気が爆発
 
こうしたベーシック回帰の中で突出した人気となったアイテムが、ニューバランス1400の「Jクルー」別注だった。Jクルーは2008年にレナウンとの契約を終了しており、日本国内での取り扱いがなく、アメリカからの並行輸入か個人輸入という形でしか手にすることができないこともあって、さらに人気は加熱した。東南アジアなどで製造されている安価なモデルではなく、あくまでメイド・イン・USAであることが条件で、1400以外にもジョブスが愛用していた992を含めた990番台もファッション業界人のマストハブアイテムとなる。スニーカーとしてはやや高額であるが、他を凌駕する履き心地の良さと今や希少なアメリカ製ということを考えれば、価格に見合う満足感があった。これまでコンバースやヴァンズの“ローテク系”か、ナイキやアディダスの“ハイテク系”に二分されていたが、ノームコアで取り上げられたニューバランスによって“レトロランニング”という第三のカテゴリーが確立されたことも、メンズファッションにおける重要なトピックスだ。
 
 
お洒落おじさんのスナップ企画が定例化
 
30代以上の大人にとっても街角スナップがブームとなったきっかけは、2005年から自身のブログ『サルトリアリスト』(後に書籍化された)で、世界中の洒落者たちを紹介してきたスコット・シューマンだった。彼が撮影したパリやミラノに集うファッショニスタのスナップこそ、多くの大人が求めていたリアルな姿だったのだ。スーツを軸に展開するドレス系において重要なイタリアの展示会“ピッティ・イマジネ・ウォモ”には、日本のセレクトショップのバイヤーやファッション・ジャーナリストたちが大挙して押し掛け、スコットに撮影されることを願いながら、競い合うように着飾った。そうして彼の地に集うウェル・ドレッサーを取り上げるスナップ企画が業界内外から支持され、レオンからウオモやメンズクラブにも飛び火する。
 
しばらく続いてきたネオ・アメトラへのイタリア流アンサーでもあり、従来のクラシックなスーツスタイルにモードや古着の要素をミックスして、ドレスダウンした着こなしが注目された。その代表的な人物がニック・ウースターで、後に彼はユナイテッドアローズとのコラボレーションなども手掛けることとなる。また、「ウミット・ベナン」や「マッシモ・ピオンボ」といったドレス要素が強いブランドに加え、セレクトショップの常連ブランドとなっていた「ラルディーニ」や「タリアトーレ」がブレイク。フラワーホールに花のワッペンが付いたラルディーニのスーツやジャケットは特に人気で、芸能人やニュースキャスターまでもが着用するようになる。
 
また、上下共布で仕立てられた服をスーツと呼び、あくまでもジャケットとパンツの組みで販売される物だが、ジャケットとパンツをそれぞれ単品で買えるスーツをセットアップと区別して称するように。そもそもセットアップとスーツは同義語で日本だけに見られる使い分けだが、この時期から芯地や副資材を極力配して軽量化したり、ストレッチや通気性に優れた機能性素材を用いたり、堅苦しい旧来のスーツのイメージを覆すようなセットアップが幅広い層に受け入れられていった。また、加速する温暖化による夏の極端な暑さに対応すべく、クールビズと服装の自由化が進んだことも影響し、特に春夏のセットアップには軽さと涼しさが求められるように。
 
 
音楽雑誌の凋落と洋楽離れが加速
 
ロッキング・オンの増刊として熱心な洋楽ファンに支えられていた『BUZZ』が2009年に休刊、同誌副編集長だった田中宗一郎が立ち上げた『snoozer』も2011年に廃刊。そして2013年には『クロスビート』(1988年:シンコーミュージック)が休刊。かろうじて残ったロッキングオンを含め、音楽を中心にしたカルチャー情報はネットへ活路を見出すように。2010年代以降は、音楽ナタリー、CINRA、Real Sound、Amassといった総合音楽サイトが主な情報源となっていく。そうしたサイトではごく稀に面白い記事を発見することができたが、かつての音楽誌ように熱のこもったコラムやインタビューをまとめて読む機会は激減。音楽誌から次なるヒップスターを読み解くというこれまでの楽しみ方は、一部の好事家以外にとっては過去のものとなった。連綿と続いてきたロック=反体制という図式は無効となり、ヒップホップが自ら高級ブランドに擦り寄っていたこの時点では、本当のヒップスターはどこにいるのか分からなかった。
 
そもそも速報性に優れたインターネットは音楽との相性が良く、海外の最新音楽情報にリアルタイムで触れ、iTunesやYouTubeで視聴するスタイルが一般的になっていたので、紙媒体の凋落は予想済みだった。ただし、インターネットの負の側面である“見たいものしか見ない”という現象が加速し、リスナーは蛸壺化していった。音楽カルチャー全体を俯瞰して語ることは難しくなり、洋楽と邦楽の乖離は決定的になった。また、紙媒体ではそれぞれのジャンルに精通したライターたちが、アーティストの表現に文脈を作って解説し、キュレーターとしての役割を果たしていたが、クラウドに保管された膨大な楽曲の海にリスナーが投げ出されるような状況を生み出した。もう、そこには信頼に足るキュレーターは存在しない。この状況はファッションにおいても同様で、無数のブランドの膨大な服の前に消費者が投げ出され、それぞれが好きなスタイルに蛸壺化していくという変化が起こることを予感させた。
 
日本のヒットチャートを埋め尽くしたのは相変わらずAKB48と乃木坂46で、テレビのバラエティ番組にもこうしたアイドルが頻繁に登場していた。かつて秋元康が仕掛けたおニャン子クラブもそうだが、まさか2010年代になってもこうした素人上がりの女性アイドルグループが国民的人気を博すとは、少なくとも私にとっては予想外だった。男性アイドルグループを要するジャニーズも安泰だった日本の芸能界は、確実に世界の流れとは別方向に舵を切っていた。後にやってくるKポップがアメリカのヒットチャートに食い込む活躍を見せるのとは反対に、この頃から日本のあらゆる場面でガラパゴス化が進んでいく。翻ってファッションにおいては、世界水準のクリエイションを発表し続けるブランドやデザイナーがいて、さまざまなトレンドを通過してきた世代による日本独自なスタイルが健在していたことは自分にとっての救いだった。
 
 

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