見出し画像

団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史⑥

2002

業界人の間でディオール・オムが話題に

モードの帝王、イヴ・サンローランがプレタポルテ(既製服)から引退を発表したこの年、ムッシュ・ディオールの意志を引き継ぐかのように、エディ・スリマンが歴史あるメゾンを再興させた。ディオール・オムでエディが披露したのは、とにかくタイトなテーラードジャケットと極端に細いタイが特徴のモノトーンスタイル。ランウェイに登場したモデルは、痩せ細った10代後半〜20代前半の東欧系の白人たち。これまでメンズファッションを牽引していた、イタリア勢が起用するマッチョなラテン系モデルとは一線を画すスタイルだった。CFDA(アメリカファッション協議会)により、デザイナー・オブ・ジ・イヤーに選出され、エディの評価は決定的なものとなる。
 
同時期に活躍していたトム・フォード、ドメニコ・ドルチェ&ステファノ・ガッバーナらが提示する男性像は、パワフルでセクシーという分かりやすい人物像(ラテン系のマッチョ)であったのに対して、エディが提示する男性像は危うい少年性だった。同性愛者であることを後年にカミングアウトする前述のデザイナーたちとは対照的に、エディはセクシャリティをあえて公表することはせず、曖昧で移ろいやすい少年たちのセクシャリティに自らを重ねた。ラグジュアリーブランドの主たる顧客が高年富裕層で、男性の権威をスーツ主体のファッションに求めたのに対し、ディオール・オムが理想としていた顧客は、旧世代のマッチョイズムを拒絶し、主流派に対する反骨心を併せ持った若者たちだった。

ロックから引用したスタイリングの妙

90年代のメンズモードの一端を担ったベルギーのアントワープ系デザイナーは、連綿と続いてきたヨーロッパのファッションを実験的な手法で解体・再構築し、コンセプチュアル・アートのようにして次なるファッションの形を提示してきた。『20世紀ファッションの文化史』(07年:成実弘至著、河出書房新社)によると、「マルジェラは服の構成要素をひとつひとつ解体し、それを丹念に検討して、違和感が生まれるようなひねりを加えて作品をつくりだす」とある。マルジェラをはじめとするアントワープ系デザイナーは、マーケティング主導でグローバル戦略を打ち出す高級ブランドに対抗するかのように、アンチ・モードとも言える手法を模索していた。彼らのほとんどは美術大学で服飾史や文化史を勉強した、服作りのプロフェッショナルだったのに対して、エディは名門校で政治を学んだエリート予備軍で、そこからファッション界に足を踏み入れたというユニークな経歴を持つ。
 
練り上げたコンセプトと緻密なプレゼンテーションによって、新しい服のあり方を提示するのがアントワープ系であるなら、ロックカルチャーから引用した既存の服をスタイリングによって新しく提示する手法がディオール・オムの真骨頂だった。マルタン・マルジェラには足袋ブーツという名品が存在するが、ディオール・オムの名品として挙げられるのはトレンチコート、レザージャケット、ジーンズといった既製服ばかりだ。もちろん個々のアイテムにはエディ流のアレンジが加えられているが、足袋ブーツのようなアイテム単独での革新性はない。既存の服をタイトかつシャープに仕上げ、それをロックなスタイリングに落とし込んだことで、モードをユースカルチャーに接続させたことに革新性があった。こうして本来アンチ・ファッションだったロックスタイルは高級ブランドに取り込まれ、ヒップな存在として君臨することになる。

新しい富裕層に呼応する高感度なショップ

ディオール・オムのブレイクによって、高額なデザイナーズ服を購入する男性がちらほら現れるようになると、その受け皿として新しいショップの存在が不可欠になってくる。もちろん、銀座に行けば高級ブランドの旗艦店があるが、ファッション感度の高い若い男性たちは、通い慣れない銀座よりも表参道の方が好都合だった。そうした新しい富裕層のニーズに応えたのが、02年に表参道にオープンした「ディエチ・コルソ・コモ・コム・デ・ギャルソン」だった。以前から業界人の間で評判だったミラノのセレクトショップ「コルソ・コモ」が、コム・デ・ギャルソンとのパートナーシップによって日本にも上陸。同社ブランドはもちろん、マルタン・マルジェラ、アレキサンダー・マックィーン、バレンシアガを含めた幅広いデザイナーズブランドを取り扱い、すべてのファッショニスタにとって欠かせないショッピングスポットとなる。
 
さらに同年、ルイ・ヴィトン表参道ビルが竣工。個性的で小規模なブランドが多く集うエリアに世界的な高級ブランドの大型店ができ、昔からのけやき並木の風景が次第に変化していく。同ビルの8階には、ルイ・ヴィトン・ジャパン社が経営する会員制セレクトショップ「セリュックス」(フランス語で豪華という意味)がオープン。バイヤーの吉井雄一によるエッジの効いた品揃えで、業界人を中心に大きな注目を集めた。会員メンバーによる推薦に加え、20万円以上の入会費と2万円以上の年会費という高額設定にもかかわらず、2005年の時点では1000人もの会員を獲得したという。一般的なファッション好きには関係のない世界だが、ラグジュアリーを標榜するからにはそういう敷居の高さも必要だったのだ。

ワールドカップでサッカー人気が沸騰

ミラノからパリへメンズモードの衆目が移行していくこの年、日韓ワールドカップが開催され、ホスト国でもある日本代表はベスト16まで進出。自宅でのテレビ視聴はもちろん、大型ヴィジョンやスポーツバーにも多くの人が集まり、日本におけるサッカーの盛り上がりは最高潮に。第2戦目となる対ロシア戦の視聴率は66.1%。ユニフォームを着込んだ若者たちが、渋谷のスクランブル交差点で大騒ぎする光景もこのとき生まれた。衛星放送でプレミアリーグやリーガエスパニョーラを観戦する、熱心なサッカー好きファッション関係者も少なくなく、仕事中にサッカー談義で盛り上がることも少なくなかった。
 
英国のモードファッション誌『アリーナ・オム』でも表紙を飾った、イングランド代表のデイヴィッド・ベッカムが、日本でもファッションアイコンとして大きく取り上げられ、彼のファッションとヘアスタイルが多くの若者に支持される。襟足を残したソフトモヒカンと呼ばれる髪型は、多くのフォロワーを輩出。ベッカム愛用のジーンズやTシャツが話題になり、03年に創刊された『サファリ』(日之出出版社)でも、ベッカムは誌面に欠かせない存在に。NFLで活躍していたトム・ブレディなどのトップアスリートも加わり、映画スター以外にもセレブ枠が広がっていった。ちなみに、後に日本でも瞬間的に話題となる「アバクロンビー&フィッチ」もベッカム愛用ブランドのひとつだった。

2003

エディのスタイルがモードの最先端に

アメリカによるイラク侵攻が始まり、イスラム文化圏を中心に爆弾テロが頻発。インドネシアのバリ島で日本人を含む202人が死亡したテロが前年に起こっていたことで、イスラム文化圏は中東だけの問題ではないことを思い知らされる。暴力の連鎖による不安に包まれる中、ヒットチャートではメロディ重視の歌モノに回帰する流れが顕著になり、イギリスのコールドプレイやトラヴィスが立て続けにヒットを飛ばした。アメリカではノラ・ジョーンズの『カム・アウェイ・ウィズ・ミー』、ブラック・アイド・ピースの『ホエア・イズ・ザ・ラヴ?』が世界的なヒットを記録。どこのカフェやレストランに行っても彼女(彼ら)の歌声が聴こえるほどだった。
 
日本ではSMAPの『世界に一つだけの花』が大ヒットし、国民的な人気曲となりカラオケの定番曲となる。そんな生ぬるい空気の東京では、スマートをはじめとするストリート誌でア・ベイシング・エイプやネイバーフッドといった裏原ブランドの動向を伝え、売上部数首位を守るメンズノンノではナンバーナインとアンダーカバーを頻繁に取り上げた。広告出稿料とイメージ向上に欠かせないラグジュアリーブランドを定期的に取り上げていた『ブルータス』や『ペン』といった、意識高い系の中年男性向けライフスタイル誌においても、次第にディオール・オムが無視できないブランドになっていく。
 
自分が編集担当をしていたバイキングという雑誌が廃刊になったのもこの年で、当時まだそれなりに部数があった『モノ・マガジン』編集部に異動となった。同誌では毎年末にグッズ・オブ・ザ・イヤーというイベントを帝国ホテルで催しており、多くの業界関係者や有名人を招いた。その中にクリエイティブディレクターの佐藤可士和が招かれていて、ディオール・オムを颯爽と着こなしていた。極端に細身なディオール・オムを大人が着こなすことは容易でなかったが、ちゃんとこういうセンスのいい知的な大人にも選ばれているのだと痛感させられた。ちなみにこの時にはホリエモンこと、堀江貴文も同じイベントに出席していた。
 
ほとんどの男性誌でディオール・オムが特別扱いを受けるようになり、ファン念願のディオール表参道店がオープン。場所は数々の高級ブランドが入っていたエスキス表参道の隣で、ガラスと白いアクリルを重ねた二重構造になった建物は、昼間は風景を映して街に溶け込み、夜間には白く発光するデザインに。鏡面加工したスチール製什器と白い壁に商品がディスプレイされた地下のメンズフロアーは、隅々までエディの美意識が行き届いていた。シャープかつソリッドで緊張感のある空間は、普通の人には相当敷居が高いと感じさせたが、当時はそれくらいエクスクルーシブ(排他的)な雰囲気が好まれたのだ。そうして、ラフォーレのある神宮前交差点から表参道交差点までの上り坂に次々とラグジュアリーブランドが参入し、いい意味で牧歌的な原宿のイメージは後退し、高級感のあるイメージへと変貌していく。

サブカル好きがいっせいに反応した映画

そんな中、ファッションとサブカルが好きな若者たちが一斉に反応した映画が、ソフィア・コッポラが脚本と監督を務めた映画『ロスト・イン・トランスレーション』だった。内容的にはこじらせた白人女性のアンニュイな異国体験談くらいにしか思えない凡作だと個人的には思ったが、サブカル&ファッション的にはエポックメイキングな作品となった。劇中ではフランス・ヴェルサイユ出身のインディーロックバンド、フェニックスの楽曲が使用され、そのサントラをきっかけにじわじわと世界で認知度が高まっていた。かつてダフト・パンクのメンバーが在籍したこともあり、耳の速い洋楽ファンには以前から注目されていたバンドだったが、エレクトロの要素を巧みに織り交ぜたロックサウンドに注目していたのは、エディも同じだった。ディオール・オムが04-05AWコレクションで、フェニックの楽曲をランウェイミュージックに起用し、ファッション関係者の一部もフェニックスに引き寄せられていく。ちなみに本作では「ヒステリックグラマー」ディレクターの北村信彦、藤原ヒロシ、NIGOがカメオ出演していた。
 
こうした動きに日本でいち早く反応したのが、渋谷系レコードレーベルとして知られるクルーエル・レコーズ(カヒミ・カリィ、ラブ・タンバリンズ、藤原ヒロシなどの作品をリリース)主催の瀧見憲司と、ファッションライターでありジャーナリストでもある梶野彰一の2人だった。彼らが熱心にフレンチ・エレクトロニカの魅力をファッションとともに紹介した功績は大きい。梶野は後も藤原との交流を続け、ファッションと音楽において独自のポジションを得ることに。また、ラブレスで辣腕を振るっていた吉井雄一も雑誌やWEBでフレンチ・エレクトロニカやその後に連なるエレクトロクラッシュの魅力を度々紹介した。こうして、渋谷系と裏原系の人脈が接近していたのは興味深いところだ。
 
フレンチ・エレクトロニカの新譜やグッズは、代官山のボンジュール・レコード(1996年:ジュングループが運営)で買うことが、熱心なファンの定番となった。また、ダフト・パンクのマネージャーを務めていたジルダ・ロアエックと、12歳から渡仏していた黒木理也によるプロジェクト「キツネ」が始動したのもこの年。後にファッションブランドとして人気を広めていくのだが、まずは音楽レーベルとしてコンピレーションアルバムをリリースした。ベーシックな服作りと音楽を積極的に打ち出すというキツネの手法を改めて振り返ると、A.P.C.との類似点が非常に多い。

カート・コバーンを取り上げ大ブレイク

2000年代前半は、最先端の流行発信地が原宿から恵比寿・代官山へと移動した時期でもある。中でも特筆すべきは、1997年にブランドを始動した「ナンバーナイン」であろう。原宿のセレクトショップ、ネペンテス出身であるデザイナーの宮下が当初手がけていた服は、イギリスのYMC(You Must Create)や6876(Six Eight Seven Six)といった同時期のUKデザイナーズのテイストを汲む、機能的な素材を多用したクリーンな服作りを得意としていたが、2001年の東京コレクションを経て、スカルを多用した黒を基調とするロックテイストを強めていった。同時にブランド開始時は原宿の神宮前小学校の裏手にあったオンリーショップを恵比寿の住宅街に移転。他の裏原ブランドとは物理的な距離を置いたことも、ナンバーナインが特別なブランドというイメージを抱かせた。
 
決定的な転機となったのは、一時休止を挟んでから発表された2003-04AWコレクションだった。全世界で3000万枚、一説によると5000万枚という記録的セールスとなった『ネバー・マインド』(1992年)で、グランジロックを世に知らしめたニルヴァーナのカート・コバーンをフィーチャー。27歳という若さで衝撃的な自殺を遂げたカートの内向性を意識するかのように、ランウェイのモデルはうつむいたまま歩く演出がなされた。大ぶりなサングラス、つぎはぎだらけのジーンズ、毛羽だったカーディガン、コンバースのジャック・パーセルなど、カートの着こなしを直球で取り入れたコレクションは、90年代の洋楽にどっぷり浸かってきたファッション好きを中心に熱狂的に受け入れられた。メンズノンノやポパイで活躍していたスタイリストの野口強がナンバーナインを絶賛し、両誌に頻繁に登場するブランドへと成長。2004年以降はコレクション発表の舞台をパリに移し、ショーのスタイリングも野口が担当するようになる。
 
以後もナンバーナインは、ザ・クラッシュのジョー・ストラマーやガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズといったロックアイコンを取り上げながら、熱心なファンを獲得していった。この手法はエディと重なるところが多く、そのファン層も重なっていた。2004年3月号のメンズノンノでは、こうしたロックから影響されたファッションの人気を受け、『今よみがえる熱き衝動を学べ! 試験にでる!? パンクロック講座』と題した音楽特集を組むほどだった。個人的にはカートと音楽的にも精神的にも対極にあり、実際に殴り合いをするほど不仲だった(ガンズ&ローゼズの)アクセルを取り上げたのは解せなかったが、宮下にとってはある種の分かりやすいロックスター像が必要だったのだろう。ちなみに、この頃のナンバーナインのアクセサリーを手がけていたのが、シルバーアクセブームで勢いに乗る「ジャム・ホーム・メイド」で、シューズは竹ヶ原敏之介による「フット・ザ・コーチャー」だったことも付け加えておこう。

ファッション不毛地帯に登場した新拠点

ファッションの最先端エリアは原宿・表参道エリアであったが、新宿三丁目の「伊勢丹メンズ館」のリニューアルオープンも見逃せないトピックだ。3Fにはディオール・オムをはじめ、グッチやプラダといったラグジュアリーブランドを揃え、2Fには日本国内で勢いのある新鋭ブランドをクリエイターズとして紹介。4Fはイタリアンクラシコの系譜を引き継ぐ高級スーツ売り場、5Fはラルフ・ローレンに代表されるオーセンティックカジュアルを取り揃えた。それまでの百貨店にあった紳士服売り場とは異なり、ファッションにうるさい男性のためにこだわり抜いた品揃えでプレゼンスを発揮。歌舞伎町のホストや二丁目界隈のゲイピープルまで巻き込んで、セール時期になると連日行列ができ店内は大賑わいとなった。高級ブランドやデザイナーズに強かったセレクトショップ「バーニーズニューヨーク」のお株を奪うことに。
 
また、森ビルによる六本木ヒルズが開業したことも大きなニュースとなった。IT長者をはじめとする超富裕層たちが彼の地の高級レジデンスに移り住むようになり、ヒルズ族という言葉が生まれた。高級飲食店、森美術館、シネコン、テレビ朝日、グランドハイアットホテルが集積し、週末ともなると新しい観光地の様相を成した。ラグジュアリーブランドはもちろん、多数のセレクトショップもヒルズ店をオープン。中でも圧倒的な店舗面積を誇るのが「エストネーション」で、この地域に住む顧客が求める艶っぽい趣味を着実に捉えて、他のショップから抜きん出た存在に。かつては芸能人や外国人たちがたむろして、酔客たちとともに夜な夜な大騒ぎしているイメージの六本木だったが、ヒルズの登場によってクリーンになったエリアにはファミリー層も訪れるように様変わりする。
 
ちなみに銀座にアップルストアが上陸したのもこの年のこと。オンライン販売が広まる中で、あえて人通りの多い一等地にオープンさせ、他のPCメーカーとは違った戦略に打って出たのである。NYの店舗と同様にガラス張りのエレベーターが設置され、美術館のようなミニマルな空間とディスプレイ、Tシャツ姿で接客する販売員が斬新だった。アイフォーンの登場前に、ジョブスはすでに他のPCメーカーとの違いを明確にし、アップル信奉者たちの聖地を実現させたのだった。

スタイリストとモデルの私服スナップ

メンズファッション誌において定例となっているスナップ企画だが、この時代はスタイリストが今でいうインフルエンサーの役割を務めた。特に人気だったのがメンズノンノの私物スタイルを紹介する記事で、祐真朋樹、野口強という2人の大物に加えて、熊谷隆志、二村毅、三田真一、伊賀大介、北原哲夫といったスタイリストがたびたび誌面に登場。多くの読者が彼らの着こなしを真似て、彼らが愛用するブランドの新作をチェックした。また、人気ショップのスタッフも頻繁に誌面に登場し、リアルな着こなしを提案した。この時点では、依然としてアメカジを主体にした着こなしが多数派で、ディオール・オムを若くして着用していたのは、結局のところファッション業界人かアパレル関係者がほとんどだった。
 
当時のファッションスナップにおける傾向は、トップスは細身だがボトムスはやや太めで、ウォレットチェーン、ブーツ、スカルを取り入れたワイルド路線が台頭した。また、夏場は胸元まで大きく開いたカットソーやジレ(当時のファッション誌ではベストとは言わず、フランス語で呼んだ)も人気アイテムに加わった。当時の私も似たようなもので、ジーンズを基本にウォレットチェーンを腰からぶら下げていた。バイクに乗っていたこともあり、「クローン」「バラクータ」というイタリアブランドのゴツいブーツを履き、「ジャンニ・ガリアノーネ」「レフトハンド」といったイタリアブランドのアウターを愛用していた。よく物色していたショップは、原宿のインターナショナルビームスとユナイテッドアローズ本店、代官山のスクリーム、中目黒のバンブーシュートだった。とは言え、給料が低かったので、実際に購入できるアイテムは非常に限られていた。 

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?