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どんなふうに、大切な人とやりとりしている?──君のいまがより良くなるように。

11:20 [PM]
「拓郎くんと全然コミュニケーションとれてないね」

突然の彼女からの連絡に、共感した。

チャットツールを使ったコミュニケーションはこれまでと変わらないくらいしているにもかかわらず、どうして不足感があるのだろう…。

正直に言うと、今のままでもこの関係に変化はないと思うが、「別居婚」をはじめてお互いが物理的に離れたことで、むしろ彼女のさらなるおもしろい一面を見られたら……というのが、僕のひとつの願い。

コミュニケーション不足感を払拭したら、毎日が少しだけ、楽しくなる気がする。

じゃあ、同棲時代は何に満たされていたのだろう?

そもそも僕には、同じ人と同じ時間を長く共有すればするほど、その人のことを好きになっていくような感覚がある。

実際に、同棲してから彼女の欠点(と思ってしまうところ)をかわいいと思うようになった。

すこし怒りたくなってしまう時もあるが、あの顔を見ると、なんだかそういう気持ちはしぼんでいき、愛おしくなる。

ある時はすごい一所懸命に働き、ある時は子どものように裏表のない表情で、笑い、食べ、寝る。

「顔を見る」ということが重要なのだろうか?

顔さえ見えれば全てが善し!なんて、言葉にしてみると、自分の性癖とさえ思えてくる。

彼女はというと、僕の「声を聞くと安心する」と言う。

では、「リアル」と「テキスト」のコミュニケーションの中間を満たすのはどうか?

ぼんやりと答えが見えてきた。

実際に会って話すリアルなコミュニケーションと、言葉だけのテキストコミュニケーションの中間地点に位置するようなコミュニケーションが、僕らにはない。

いつも一緒にいたから、そんなものは必要なかったのだろう。

僕が思う中間地点のコミュニケーションとは、音声メッセージやInstagramのストーリーなど「時間」を共有できるもの。

じゃあ、このやりとりで自分が大切にしたいことは何か?

彼女と共有してきた毎日のなかで、もっとも幸福だと感じるのは「夕食の時間」。

調理し、片付けるまでには「共同作業」があり、ごはんを食べている時に「感情の共有」がある。

「おいしい、嬉しい」

何か特別なことを話さなくても、感情まで分かり合えるなんて、食べるは偉大だ。

これからは感情の共有と共同作業のどちらも満たせるような中間地点でのやりとりが、不足した一緒に過ごしているという感覚を取り払うヒントになる気がする。

・インターネットを介してモノをつくる。
・インターネットを介していっしょに食べる。

つねに一緒にいなくても、感情の共有と共同作業の両方を満たせるものとは、たとえばこんなことだろう。

君はどんなふうに、大切なひととやりとりしているのだろう?

僕たちは、今をより楽しめるようにと考えて過ごしている。

君のいまがより良くなるように。
父さんは今日も願っています。

(今朝のヨーグルト)

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