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アドラー心理学に触れてみて(人間関係編)

 書店で大人気の「嫌われる勇気」を読んでみた。これだけ読まれているからには何か理由があるんだろう。という軽い気持ちで手に取ってみた。

 実は今まで哲学らしいものに触れたことがほとんどない。山口周氏の「武器になる哲学」を読んで、哲学世界の概観をつかんだくらいだ。

読んでみた感想。僕の読み込みが浅いところもあるだろうが、納得できるところもあればそう出ないところもあるという感じである。

 以下、エッセンスとその僕なりの考察を書いてみようと思う。今日はまず人間関係のところだけ。


1・すべての悩み事は人間関係に由来する。

人間には個人のタスクというものが存在するという。言ってみれば、自分と他者とを分別する一種の境界線だ。 人間関係の拗れはその個人の領域に土足で踏み込んだり踏み込まれたりすることによっておこる。ここで言っているのは何もプライバシーの侵害や過度な干渉といった類ではない。

一番わかりやすい例は「期待に応えようとして生きる」ということだろう。他者が自分に対してこう生きてほしいというあり方を押し付けてくるのは、考えてみれば独立した意思を持つ個人の領域に対する一種の侵犯になりうる。しかし、厄介なことに人間には承認欲求なるものが存在するため、他者からの期待に応えようとして、「自分はこうあるべき」だとか「自分はこう生きたい」っていう自らの願望を押し殺してして期待に応えようとして自分と他者との間のジレンマに苦しむのだ。

 それでは他者からの一方的な攻撃はどう受け止めればいいのだろうか?これに関してアドラーは「自分が嫌われるか否か、ということは自分のタスク外のことで自分で操作できるものではない。」と断言する。つまり、どう生きていても嫌われるときには嫌われるのだから相手の評価などバッサリ切り捨てて己が道行くことが肝要だと説く。

これらを通じて言えることは、自分と他者との境界線をしっかり持て、ということだ。これができれば人間関係に関する問題は解消するという。

 わかるような気がした。僕も相手に期待してそれを裏切られてがっかりすることがある。当然だろう。しかし、他者は自分で操作できるものではない。「相手が何をしてくれるか?」ではなく「自分が何をするか?」の方が大事なのだ。なぜなら、僕は自分の人生における主人公であっても世界の主人公ではないのだから。



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