自分を後に置く感覚

日曜日の朝に家族よりも早く起きてしまった時に見るフジテレビの「早く起きた朝は...」を今週、見ていました。普段明るい磯野貴理子さんが離婚の話を、普段のままに明るく切り出した。旦那さんの「子供が欲しいから」を受け入れての離婚だそうだ。結婚するにあたって、二人の間での話し合いや、気持ちの整理はあった上で決めた事かも知れないが、人の気持ちは変わり行くものだろうし、たとえ、別れる口実として磯野さんには手の届かないものを理由にする狡猾さからの言葉だったとしても、それは計り知れない部分だ。

彼女は一度、脳梗塞という死の淵に立たされている。それを旦那さんが気付いたことで、大事には至らなかった。しかしながら、その後の生活の中で、後遺症を感じていたとのこと。そして、感謝をしてもしきれないということも語っていたみたいです。

私と彼女は違う。それはわかっているけども、勝手な解釈をし、勝手な共感をしている部分がある。私が病気になった時に、死の淵に立たされて思ったのは家族のことだった。残される側の人のことだった。何を残せて、何を心残りとするのか。自分のことはあまりどうしたいという発想はなく、なるようにしかならないと、流れに任せた気持ちがあった。そうやって、自分の感情や意識を切り離さないとやっていられなかったんだろう。私に働いた事故防衛本能がそれだった。
 自分が生きること、死ぬことを天秤にかけて、経済面、精神面、社会的な体裁といった考えられることをすべて書き出して、一つ一つ繋いで、整頓をした。持っている不動産を処分すれば、再スタートもできるし、ありがたいことに勤務先の遺族年金で生活はまかなえ、墓は両親のものがあるし、今までも休日くらいしか子供とは接する時間は無かったから、まだ小さいから精神的な傷は浅く済む。父親として寄り添うことはできないが、そこには妻が、同級生が、先生がいてくれるだろう。妻だけには迷惑をかけて申し訳ない。でも、妻がなるよりも自分でよかった。そういったことばかりを考えていました。

幸いなことに、治療がうまくいったことでそれらは杞憂に終わったのですが、未だに残っているのは

自分の優先順位を下げたこと。

それが戻せていない。うまくいかない。自分の価値が曖昧になったし、子育てをしていても子供の成長を一番阻害するのは親であり、ある程度の距離が必要なんじゃないかと強く思ったが、その距離感がわからない。妻によく自分の行動が正しいのか確認するようになった。要は何より自信が無くなった。人の考えを邪魔しないのかという点で。再度、自分がいなくなったら、と常に脅えている気持ちが自分の根底にしっかりとあるんだろう。自分がいなくなった後のそれぞれの生活を尊重するあまり、邪魔しないように、深く入り込めなくなったし、人間関係が浅くなった。でも、それも後ろ向きな勝手な愛だと自分では結論付けている。

私と彼女は違うし、私は彼女の旦那さんとも違う。
本当はもっと強いのかもしれないし、強がっているのかもしれないし、傷ついているかもしれないし、狡猾なのかもしれない。
磯野さんの話を聞く限り、電車の中で人に譲るように「席を空けて立った」ように私は思った。それを彼女が「いいの」っていうなら、その気持ちを追い越すことはできない。

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