霞む負の源流

地域猫に関する課題について考えるとき、この問題を取り巻く人間たちへの焦点の当て方やその関係性について最近すこし気にかかることがある。とても些細なことかもしれないけれど、解決へと進行していく上で案外欠かせない認識だと思うので書いてみたい。昨今の様々な啓発資料などでは、関係者や地域の方々を以下のように書き表していることが多いように思う。

◇猫が嫌いな人・猫で困っている人 (①)
◇猫が好きな人・猫を助けたい人 (②)
◇ボランティア
◇行政

その他に無関心・地域猫についてあまり知らない人という枠を加えてもいいかもしれないけれど、大抵はこのような枠の方々が登場して、そして案の定、えさのあげ方などマナーの問題から同じ地域住民同士の①と②の対立に矢印が向けられている。現場でも実際にそうだと思う。そこで互いがどのように歩み寄り、協力し合うにはどうしたらいいかに焦点があてられ、これこそが地域猫問題を解決へと導くひとつのキーだと説き、さらには、公的機関やボランティア団体なども参入し、地域・行政・ボランティアの三本柱での連携を図ろうではないか、と展開するわけである。良い意味で今では普及が進みつつある内容である。間違いはなく、決して欠かすことができない大切なセオリーであり進行手段だと思う。しかし、問題を捉える上での重要な啓発要素として、何かが足りなくはないだろうか。この違和感がいったいどこからくるものかを考えたとき、問題の発生源ともいうべき加害者が見当たらないからだと分かった。

対立関係に陥りやすいと述べた①と②の両者は、実はこの問題を語る上ではどちらも被害者だ。①は敷地内でのさかりや喧嘩の鳴き声、糞尿に悩まされ、②は自身の時間や金銭を費やし、不妊去勢手術や食事を与えながら小さな命を案じているわけである。そこで生じる互いのマナーの問題や人間関係の食い違いによって摩擦が起こり、地域猫問題の縮図ともされている対立のイメージが根付いてしまっているが、両者の根底には不幸なねこがいなくなって欲しい、これ以上増えないでほしいと願う共通した理想・想いを内在している。

そこで私たちは、改めてこの問題の本質を見定め、引き起こされている負の源流を辿らなくてはならない。身勝手に現場へ落される人間性を欠いた初めの一滴、その多くは (実際の検挙例からみても) 町や公園が寝静まった夜中に垂らされ根を張るのだろう。それはおそらくひっそりと周囲の目を気にしながらも、面倒な荷物からの安易な解放という選択に手を伸ばし、事態の種を奥深くに植え込んでしまうのだ。あるいは、車を徐行させたまま助手席の窓からまるで不要になったごみでも扱うかのように、「感情を持ち合わせた温かみ」をいとも簡単に放り捨てていくのだ。そして、ひょうひょうとした顔で帰宅し、翌日からもまた生きるのである。今、私たちが忘れてはならないのは、そうして問題の輪からいち早く抜け出し、その気配をいやらしく消しているこういった元凶の人間たちである。

◆遺棄犯
◇地域住民 (①+②)
◇ボランティア
◇行政

原理原則に基づき問題流出の蛇口ともいえる根源を明確化することによって、先に述べた同じ目的を内在する住民①と②の摩擦は軽減し、少なくとも「えさをあげる人間が悪い」「野生動物の淘汰に手を差し伸べるな」というようなすれ違った言葉が飛ぶ現場は減少していくことと思う。多頭飼い・ブリーダーの崩壊など、小さな命たちを取り巻く問題は挙げればきりがないけれど、ひとりひとりが学びながら現状を俯瞰することで、さらに強固なスクラムを組める日が訪れることを願ってやまない。そして今、この問題の紛れもない一番の被害者である猫たちに対し、私たちはいったい何ができるだろうか。少なくとも「可愛い・癒される」はもう充分にもらったはずである。私自身も考えて続けていきたいと思う。

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Takuya Kamei

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