小説「のぶのら」[初稿](一)

 いま、階段に這いつくばって上の様子を伺っているこの男、名を吾郎と言う。階上で行われているはずの愚行を暴こうとしているのである。上から薄《うっす》らと漏れる光で見るところでは、その男のコートはびっしょり濡れている。いや、そんなことはどうでもいい。それよりも、なぜ這いつくばっているのか。おそらくは古びた階段を軋《きし》ませぬよう重心を手足に分散させようと思ったのであろう。左足、右手、右足、左手の順に一段ずつ、そろりそろりと上って行く。そうして思惑どおり、彼は一度も段を軋ませることなく階上に上りつめた。
 建て付けの悪い戸の隙間は中の光をチロリと漏らし、それが彼の骨張った顔を照らした。覗き込む顔の動きとともに移動する狭いスコープが、あるところでピタリと止まる。そこに映るのは、かつて彼が幾度となく目にした光景であった。しかし、それが今は――たった数年しか経っていないはずの今は、別の意味を持っている。
 部屋の中の男は、電球スタンドに照らされた本のページを手繰《たぐ》りながらすばやく視線を走らせている。一頁、二頁。速いペースで捲《めく》られているが、決して軽く読み飛ばしているのではない。速く、深く、強く刻まれていく知覚。没頭とはこういうことを言うのだろう。もし吾郎が階段を軋ませたとしても、たとえ足を踏み外し「わあ」と叫んで階段から転げ落ちたとしても恐らく彼は気づかなかったろう。
 吾郎はしばらくの間、戸の隙間に細く切り取られた男の姿を見つめ、溜め息に似た長い息を吐いた。本を読んでいる。信二が本を読んでいる。それだけの事実が吾郎を深く失望させた。愚行を暴くとは言っても、それは吾郎の望むところではないのである。いっそ見なかったことにしようか。このまま何ごともなかったと言い聞かせて階段を下りようか。そうも考えた。だが、 これも信二のためなんだと再度己《おの》れを奮い立たせなければならなかった。彼はそのためにここに来たのだ。彼は立ち上がった。そうして息を殺して引き戸に手を掛け、それから一呼吸おいてズバラっと戸を開き、一気にそこへ踏み込んだ。

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