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消滅する自我

自分でも呆れるぐらいのポンコツ息子で御座いました。

母が亡くなる三年前に便りをもらっていまして、開封はしたものの、ろくっすぽ中身は読んではいなかったのですね。

母が岐阜を旅した報告でして、我々にとって岐阜はキーポイントになる場所だったのだと思います。

僕はオリンピックの年の暮れに岡崎で産まれすぐに浜松の外れに越して、物心着く前に岐阜へ越しました。浜松時代の僕は、暴走するエンジンのように泣き叫びそして笑う傍若無人な幼な子だったようです。

岐阜で少しずつ人の心が育まれてきて、衝動的な陰キャとしての自我が芽生えてきたのは、自分でもよく覚えています。まあ非定型ですね。ずいぶんとやらかしました。

大怪我をしたり大怪我をさせたり、遠足で行方不明になったり、そして母と2人きりで、手のひらに点した灯りを眺めたりするような毎日でした。

母と2人きりで、同級生の親がやっている屋台のラーメンを食べに行ったこともよく覚えています。

岐阜の片田舎の、屋台のラーメン屋の同級生。普通ではありませんね。まるでロマです。育ちの良い母が小さな息子を連れてそんなラーメン屋にはおそらく行きません。それでも息子の気持ちに答えるため、それからちょっとした冒険だったかもしれませんし、慈愛の精神だったのかもしれません。

小さな僕にとってそのラーメンはとても美味しかった。今の物差しでいうと雑な濃い味の鶏ガラ醤油のラーメン。母にとっては不味いラーメンだったのだと思います。繊細な陰キャな僕には母の気持ちが伝わってきました。

でもさ、このラーメンのほうれん草ってすごい美味いんだよ!なんでそんな顔するの?って思ったのを鮮明に覚えています。

不器用で陰キャな自分は生きる術として、物事の良い面をだけを捉えて後は諦めればいいんだ、そんな風に思っていたんだと思います。

女性との恋愛ではそれで随分と痛い目にあいました。でもお互いさまです。

その便りをもらう三年前には、僕は岐阜マラソンに参加の折に岐阜を訪れていました。その話を母にはしたのですが、あまり感心は無さそうでした。

でもちゃんと通じていたのか、それとも隠された因数となって作用したのか。

コミュ症の陰キャ母子だったのですね。

最期の病院へ転院した日。

2019年12月1日。その日は冬の奇跡のような暖かい安寧な日和りでした。古いプジョーのポンコツのオープンカーで送りました。実家に寄りましたが、あまり興味が無さそうでした。そのあと菩提寺に寄りたいと。もう歩く力も残っていなかったので菩提寺の正門前からお祈りして、最期の病院まで向いました。

思い切ってオープンカーの屋根を空けました。環状線の銀杏並木の絨毯のような道を母と二人きりで。その静かな景色は鮮明に覚えています。おそらく母も、そして自分も死ぬときに思い出すでしょう。

相変わらず会話のない母子でしたが、手のひらの上にまたひとつ灯が点いたような気がしました。とても久しぶりに。

そのあとは本当に最期の1か月。
もうお終いなのは、これではっきり分かりました。記憶の奥底の想い出の答え合わせをする会話がメインでした。

そう岐阜時代の話がほとんどでした。少しだけ沖縄の田場さんちの話。

火がだんだんと小さくなって最後はゆらゆらと揺れて消えてしまうような最期の一ヵ月。消滅する自我。

マイノリティーとしての矜持。

これはインスタへ載せたポストなのです。
気になってストリートビューで岐阜を訪れてみたら、長良小がピカピカに建て替えられていまして。そりゃそうだよな50年以上経っているわけだから。でもバス停はそのままでした。

そして借家の長屋の一角が残っていたのには驚愕。
若干闇を感じるな。

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