ふつうってなに?じわじわふつうになっていく?

武蔵野美術大学 大学院造形構想研究科 クリエイティブリーダシップコースのクリエイティブリーダシップ特論 第3回目の授業を受けて感じたこと...

スペキュラティブデザインの第一人者の一人であり、メディアアーティスト等として活躍されている長谷川愛さんのお話を伺った。

スペキュラティブデザインってなに?

スペキュラティブデザイン、噛みそうで聞きなれない言葉であった。
これは何かというとつまり、問題提起を行うデザインだそうだ。

スペキュラティブデザインとされる作品を見たときに感じる違和感
この感覚、何か探っていく感じ、幼少期に見た現代アート?か何かの展示を思い出した。
怖い、なんか変、綺麗、荒い感覚がそのまま体に入ってくる感じ。
表現の根底には強い感情がある。

長谷川愛さんのお話を伺って、作品を紹介いただいて、
このスペキュラティブデザインというのは、私の中で持っていた「アート」の印象に近いものに感じた。

今回の講義の中でご紹介の作品

「私はイルカを生みたい (I Wanna Deliver a Dolphin...)」
「(Im)possible Baby」
「shared baby」
 など…
 ・どう思う?
 ・こうだったら、どう?
 ・ふつうってなに?
 ・いつ、普通や当たり前ってできるんだっけ?
 ・誰が決める?

繊細なエリアに差し込まれる表現による問いは、目をそらしたくなるような、
これ以上考えるのをやめたくなるテーマも多かった。

だが、問題提起をしている作品と向き合うとこで、自分自身がどんな感性と世界の中で生きているかが浮き彫りになった気がする。

「(Im)possible Baby」で提起された、女性同士の間で生まれた女の子たちのイメージ


近しい知り合いの同性カップルを思い浮かべ、彼女たちからしたら、
当たり前に自分たちの子供を持てる社会が来たらどうだろうか、と望ましいことなのかなと想像をした一方で、生まれてきた子供は辛い目に合わないだろうか、など
色々考えてしまう。
親の意志で生まれた子供、その子供が常識という何かに押し殺されてしまわないか
そのことを考えると、
同性婚同性出産がOKの社会になったすぐ後に生まれた子供達の苦悩は必至なのかもしれない。
しかし、今までもこうした革新の一期生の苦労の上で、今の世の中が作られていっていると考えると、(異人種、異文化感など)
今はまだ人類文化の進化の途中であって、未来から現代を振り返った時はまだかつてこんな違和感を持っていた時代があったという歴史の一部になるのかもしれない。

ふつうができるのはスイッチ型でなくツマミ型なのだろうな と当たり障りのないことで締めてみよう。

ふつうになることがいいのかという点でも話を広げたいところではあるが、、

ふつうじゃないでも、いいよね。という社会が先でもいいな。

みんなと同じじゃないからって攻撃されたり嫌な思いする必要はないし、脱ふつうしたいしともいるかもだし。

とても感慨深い内容でした。

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