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「誰かがやる」は結局誰もやらないのかも

最近、チームで仕事する機会が増え、あらためて思うことがある。
「誰かがやるだろう」という考えは、自分はやらないと決めている人の言い訳のようなもの。

それで思い出すのが小学校1年生のときのことだ。
長い夏休み中、学校の花壇の花が枯れてしまわないように、水やり当番を決めた。
当時は少子化なんてことはなかったから、クラスには40名以上生徒がいて、ふたり一組でひとり一回ずつの当番だった。

私は一緒に当番になっていた近所の男の子と一緒に、割り当てられた日に学校に行った。
水やりしたあとは、クラスの名簿に印をつけることになっていた。
ふと名簿を見ると、もう8月になっているのに、誰も印をつけていない。
おかしいなと思い、帰宅して母にそのことを話したのを覚えている。

夏休みがおわって、真相がわかった。
私たち以外、誰ひとりとして水やりに来ていなかったのだ。
40数名いるクラスの誰も。

理由は分からない。
でもおそらく、親御さんや子供自身が「自分ひとり行かなくても誰かがいくだろう」と判断して行かなかったのだと思う。
その意識がたくさん集まって、そういう結果になったのだろう。

子供時代の私は特別に責任感が強かったわけでもない。
ただ当番だったから、暑いなあと思いつつ学校に行っただけだ。
今の時代で同じことがあれば、違う結果になっているかもしれない。

小さな無関心が集まると、とてつもなく無責任なことになってしまうのだ。
次元は違うけど、ゴミのポイ捨てや選挙なんかも、そういうものなのかもしれない。
そして私は今、仕事でそれを実感している。

でも逆に考えてみれば、小さな責任感や関心が集まれば、すごい力になる可能性を秘めているのだ。
私もその大きな力のひとかけらになれるよう、がんばりたい。

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