共通言語の偉大さ

清水の舞台から飛び降りる──意を決してなにかをおこなうとき。もしくはおこなったあとに使われる格言だ。

個人的に過去そういったことがあったのか、と記憶の紐をたどってもなかなか解くことができない。残念ながら大した経験が今までになかったということだろう。

しかし、である。その経験を生まれて初めてしたのだ。2019年の初頭に。なんだかよくわからない感じだったけれども、心地よかった気がするのはたしかだ。

なんと、今日は初めてヤクルトファンが集う飲み会に参加させて頂いたのである。

今までにもヤクルトファンが集まる飲み会に参加したことはある。けれども、それはごく少人数であり知らない人はせいぜいひとりかふたり。言ってしまえば内輪の飲み会だ。大人数の飲み会はことごとく回避してきたのである。めんどうとか気が乗らないとか、そういったことよりも「疲れる」これがイヤだったから。

でも、今日は違った。知ってる人はふたり。知らない人は30人以上という、完全アウェイのなかぼくはがんばった。たぶん、6回4失点くらいだろうか。ダメっぽい? いや、そんなことはない。ヤクルト的にはなんの問題もない。近くのヤクルトファンに聞けばきっと教えてくれる。

話を会に戻そう。

乾杯が終わっても自己紹介はそこそこ。というよりしていない。各人が思い思いの考えを話す。それは過去、現在、そして未来と時間軸はバラバラだ。それでも意味はわかるし、思いも通じる。なんと簡単なコミュニケーションなんだろう。

ちなみにコミュニケーションがとれるのが、ぼくの超人的な理解力のおかげかというと残念ながらそういうわけではない。「ヤクルトファンの思い」という素晴らしい共通言語のおかげだ。

でも、悲しいかな楽しい時間はあっという間。実質1時間くらいの感覚のなか、現実世界では5時間以上も経過しているのである。ぼくも家に帰らなくてはならない。楽しそうな宴は続いていたが、会場をあとにした。

帰りの電車で眠たい目をこすりながら、このnoteを書いている。ほんとうにねむい。今日は2時まで起きているのもむつかしいだろう。繰り返すけれどもほんとうにねむいのだ。

清水の舞台から飛び降りた先には、思いのほか綺麗な景色が広がっていた。ほんとうに飛び降りたことなんてもちろんないけれども、こういうことって案外あるのかもしれないな。

こちらサポートにコメントをつけられるようになっていたのですね。サポートを頂いた暁には歌集なりエッセイを購入しレビューさせて頂きます。