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振り返れば一本道 ~アートディレクター荒井耕治氏インタビュー(第2回)

アートディレクター荒井耕治さんのインタビュー第2回。(全4回)
第1回では高校を卒業してから、一旦はミュージシャンを目指したものの業界の理不尽さに情熱を失った経緯。営業として入った会社で奥様と出逢い、一緒にデザイナーとして仕事をするようになったところまでをうかがいました。
第2回では2度の転職を経て、有名制作会社でアートディレクターになるまでをお話しいただきます。

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荒井耕治(あらい・こうじ)
1953年茨城県大洗町生まれ。工業高校卒業後、電気メーカーサービスセンターに入社、退社。インテリアデザイン学校を卒業。バンド活動を経てデザイン会社入社。営業からデザイナーになり、2度目の転社で1979年にT.I.M.E.に入社。1991年4月 T.I.M.E.より独立し、有限会社アライ事務所を設立、広告の企画制作、デザイン事業を開始。 2000年5月 社名を有限会社アライブに変更、広告の企画制作の他にWEBの企画制作も始め、デザイン事業を継続、現在に至る。
読売広告大賞 部門別最優秀賞他受賞多数。
www.hi-alive.com

もっと大きな仕事がしたくなって転職

---- その会社にはどれくらいいらしたんですか?

2年くらいですね。入って1年半くらい経った頃に、もっと大きい仕事をしたいと思うようになりました。あの頃、目を引くB倍ポスターがたくさんあったんです。  浅井慎平さんなんかのポスターに物凄く惹かれて、「俺もこういうのやりたい!」って思いました。とにかく広告の黄金期じゃないですかね、あの頃は。とにかく眼に入ってくるものがみんな新鮮で。

その時にいた会社では大きな仕事は無理だと思い、他の会社に移ることを考え始めました。あの時代は人手が足りない時代でしたから、どこにいっても採用されるんですよ。

---- それは最初にデザイン会社に入る時はデザイナーとしてはどこにも雇ってもらえなかったけれど、次はスキルがあるからどこでも雇ってもらえたということですか?

そういうことです。

その時に知り合いからアオプランという会社で人を募集しているという話があって、そこの面接を受けて入社しました。そこはそこそこメジャーな仕事をしてたんですよ、カネボウさんだったり。

それで僕も入ってすぐにマクドナルドさんとかを担当している先輩のアシスタントをやっていて、結構メジャーな会社の仕事をやってましたね。

その頃はちょうどマクドナルドさんがどんどん店を増やしている頃だったんです。「どこどこ店オープン」のチラシとか、メニューとか、そういう仕事がもの凄くあったんですよね。

それで年4回だったっけかなぁ、キャンペーンをやるんですよね。そういうキャンペーンのポスターだの店内の電飾看板だのを色々やっていて、その内に先輩が会社辞めちゃったんですよ、マクドナルド担当の。それでやる人がいないから、僕が無理やり顔になっちゃいました。

その時に、初めてキャンペーンにスターウォーズが登場したんですよ。


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キャンペーンのプレゼント用カップ。
これを含め、ポスター、チラシなどを制作。

「レイヤ姫って可愛いの?」

---- おおーー!

それで代理店の営業さんが、「今、アメリカで凄い流行ってるんだよ」と言うんですけど、ピンと来ないわけですよ。映像も何も見ないで初めてキャラクターを見たわけですから。

当時のスターウォーズって「ダースベーダーって何?」って感じじゃないですか?それで「レイヤ姫って、かわいいのかな?これ?」そんな感じだったでしょ?ただ、C3POとか、R2D2は何か面白いなとは思いましたけど。

---- 映画が公開される前だったのですか?

そうです。

---- それはアメリカのマクドナルドでキャンペーンキャラクターとして採用していたから、日本でもとなったわけですかね?

そういうことでしょうね。日本でも流行るだろうということだったんじゃないですか。

当時のマクドナルドさんの本社は新宿の三角ビルの結構上の方にあって、25,6 歳の頃だったか、プレゼンに行かされてビビりましたね。しどろもどろになっちゃって、代理店の人に助けてもらいました。だって経験ほとんどない頃に、そんな大きい仕事を任されてしまったわけですから。

---- ラッキーだったとも言えますよね?

そうですね、ラッキーですね。

それでマクドナルドさんをずっと、どれくらいやったかなぁ。それで何となくいろんなことを覚えていきました。チラシ、ポスターがメインで、SPグッズ、スターウォーズのキャンペーンのグッズでカップのプレゼントのデザインをしたりとか、それの刷り出しの立ち合いで京都に行ったりとか。初めてずくしがいっぱいありました。

印刷の立ち合いなんて初めてだったんじゃないかな。それも「新幹線って、俺、乗ったことあるかな?」という感じですよ。

---- 京都に発注してたんですか?

そうです。その印刷方式は特殊であまりなかったみたいですよ。それで京都の印刷屋さんでした。印刷されたシールみたいなのをぱーっと見て、「あぁ、いいんじゃないですか」という感じでした。それがカップに圧着されるんですよね。

それで、そこのアオプランという会社も何年かいて、もっと大きな仕事というかメジャーな仕事をしたいと思うようになりました。


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アオプラン時代、自宅での制作風景

よりメジャーな仕事を求めて有名制作会社へ

その時、ちょうどT.I.M.E.が人を募集しているという情報を聞いて、それで紹介してもらって社長に会ったんです。それで即雇ってくれて、松下電器さんのチームに入れられました。

---- その頃のT.I.M.E.は広告制作会社として有名どころの一つだったと思いますが、社員は何人くらいだったのですか?

その頃はずっと16名前後でした。

---- 少数精鋭だったのですね。

コピーライターもいるし、デザイナーもいて、営業はいなくて、制作を丸ごと請け負うという感じでした。

当時は今のようにコンピューターじゃないから、版下で入稿しないといけないので、そういう版下作業は外注するか、下っ端がやるか、どちらかだったんです。ただT.I.M.E.は外注はしない会社だったので、僕ら下っ端が版下を作るんですけど、一日どんなに頑張ったって3つか4つしか作れないんですよ。

当時の松下電器さんは広告量日本一でしたから、雑誌広告がめちゃくちゃ多くて。キャンペーンやるっていうと20何誌か作ってたんじゃないですかね。

当時、松下電器さんの広告が会社の多くを占めていたので、社長のSさんとかが「これじゃいかん、他のクライアントも開拓しないと」と思ったらしく、新規の開拓チームみたいなのを作ったんですよね。それがアートディレクターのYさんがヘッドのチームで、僕はそのチームのサブみたいな感じになりました。

Yさんが代理店さん経由でヤマハさんのスクーターだとかワコールさんの下着だとか、あとマックスファクターさんだとか、とにかくいろんなのをやり出したんです。あと、車もやってたかな?僕は車はあまりタッチしていませんでしたけど。

Yチームでやっていて、あるとき小田急電鉄さんの方が仕事の相談に来られたんです。それで小田急電鉄さんの担当が私になって、そこから実質的にアートディレクターになりました。


続きはこちら >>> 【part3

関連リンク: 有限会社アライブ http://www.hi-alive.com
※写真は全て荒井耕治さん提供

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