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わたしも。と話し始めるのをやめた話

「わたしも〜なんですけど、」

話し始めが「わたしも」で始まる自分の言葉に、なんだか急に違和感を覚えるようになった。(あれ、今また「も」っていったぞ!ってね。)

よくよく観察してみると、急に意見を言わなくてはいけない時とか、あまり、話したことない人たちと会話するときなど少し緊張気味の際に多用している。アウェイな場ともいえるかもしれない。

わたしの口はなぜこんなにも「も」と言いたがるのか。
考えてみた。

①共通点をあげてコミュニティにとけこむため
「も」の先に続くのは、「わたしも」「あなたと同じ」というメッセージだろう。アウェイの時に使いがちなのは、「わたしは敵ではありません、ほら、あなたとこんなとこ一緒よ」って共通点を差しだして安心させるためかもしれない。

②同調が楽だから
「体調が悪くって」「実は私も…」といった確かに同じような状況にある場合もあるのだけど、そのうちの何十パーセントかは、そういった物の言い方が楽だからという理由で、勝手に口からぽろりんと出てくる気がしている。
はっきりとした記憶があるわけじゃないけど、身を守るすべとして社会の中で身につけていったんではなかろうか。前へならえをしておけば否定や拒絶をさけられるって。

③とりあえず「も」
わたしの意見をいうためには思考しなくてはいけないから、とりあえず何をいったらいいかという時に前の人の言葉にのっかると楽というのもあるだろう。

こう書いてみると、どれも、”一緒であることに価値をおいている”
自分が見え隠れしているようだ。

「も」への違和感
「わたしも」と言っておきながら、話し出すとやっぱり違いましたなんてことがある。だけど、話の出発点が「も」で始まっているから話すことがなんだかぼやける。東京の地下鉄で目的地からほど遠い出口から出てしまったような感じで。なんなら、一緒です部分をいっただけで、もはや言いたかったことが分からないまま終わってしまうなんてこともある。
自分の言葉はどこへやら?だんだんわたしの存在希薄になっていくような気さえしてくる

誰かが口火を切って、それから、「わかるわかる」もしくは黙ってウンウンとうなずく。場の空気が臆病にさせるということもよくあるし、とにもかくにも、自分だけの意見を言わないことはほんとうに楽なのである。

同質は楽。異質はひと手間。
同質に安心し、異質に刺激をもらう。

そういう意味で、「も」はワルモノとは言えないのだけど、
多用するのは考えものだ。

一緒が安心であるという潜在意識。
これをそろそろ手放したいのだ。
違ったっていいと尊重しあえる
違いは宝だ、といいたいから。

娘が「●●はこう!」とはっきり言うと、「お、おう……」と少したじろぐとともにとても率直で清々しいと感じることがある。

異質なものって目をひくし魅力的にうつるんだよな。
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お読みいただきありがとう。
今日もこんな小きことを考えています。

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