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軍人として活躍した王の「庶子」たち

昔の王様はとにかく子だくさんでした。

死亡率が高かったからとか、信頼できる子をたくさん作っておきたいとか、子は多ければ多いほどいいという価値観とか、色々な理由はあったでしょうが、そんなわけで正妃以外の女性ともたくさん子を作りました。

側室や妾など正妃ではない女性から生まれた子は庶子と呼ばれ、時には本流の王を排除して王位に就くこともありましたが、王にはなれないことのほうが多いです。

そして中には王にならずによかった、というほど別の分野で活躍した庶子もいました。

日本だったら一休宗純が有名ですが、世界史だと軍人として名を馳せた人物が多いようです。

※ 現在では庶子という言い方は差別的として「非嫡出子」と呼ばれますが、本記事は歴史的な話なのであえて庶子という言葉を使っています。

 1. ドン・フアン・デ・アウストリア 1547-1578(神聖ローマ帝国)

ドン・フアン・デ・アウストリアは神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)と、愛人バルバラ・ブロムベルグとの間に生まれました。母バルバラはレーゲンスブルグの庶民の生まれで、商人・職人・洗濯嬢・売春婦など身元はよく分かっていません。どういういきさつか不明ですが、女好きのカール5世の寵愛を受けるようになった女性です。

彼の顔は父カルロスの印象をどことなく残しながらも、ハプスブルグ家特有の突き出たアゴがなく、上品な顔立ちをしたイケメンで、国王フェリペ2世はこの異母弟に好感を持っていました。

王の庶子は通常は聖職者の道を選ぶのが普通ですが、彼が選んだのは軍人の道。

異母兄フェリペ2世は異母弟を期待し、キリスト教徒に改宗した元イスラム教徒(モリスコ)の反乱の鎮圧を指示。わずか22歳のドン・フアンは期待に応え、歴戦の軍人も手を焼いた反乱を見事に鎮圧してみせたのでした。

1571年、教皇ピウス5世のたっての要望で、ドン・フアンは26歳の若さでキリスト教連合軍の司令官に任命されました。相対するは西ヨーロッパへの進出をたくらむオスマン帝国。史上名高いレパントの海戦です。

ドン・フアンは自ら主力艦隊を率いて指揮をとり、敵将アリ・パシャ、シロッコを討ち取ってオスマン帝国を打ち破ることに成功。一躍キリスト教諸国の英雄となりました。

1576年、その勇名に目をつけたスコットランドは、隣国イングランドへ対抗するため、女王メアリ・スチュアートとドン・フアンとの縁談を持ちかけます。

ドン・フアンとしても、スペイン領オランダの新教徒を支援するイングランドに対抗する必要性を感じていたし、何よりスコットランド王になれる。ドン・フアンは兄フェリペ2世を説得し、フェリペ2世もこれに同意。いざスコットランドに向かおうと準備を進める中で運悪く病に倒れ死亡しました。

  

2. モーリス・ド・サックス 1696-1750(フランス)

軍人モーリス・ド・サックスの父は、怪力の絶倫王として名高いザクセン選帝侯及びポーランド王アウグスト2世。アウグスト2世は訪れた各地で愛人や妾を作って次々と孕ませ、350人以上の私生児を儲けたというい逸話がある人物です。

母はドイツ人とスウェーデン人のハーフで、ブランデンブルクの貴族マリア・オーロラ・フォン・ケーニヒスマルクで、モーリスは大量にいる兄弟たちの長男であったそうです。

モーリスは父アウグスト2世の命令で、オイゲン・フォン・ザヴォイエンの元でザクセン軍を率いてフランドルでフランスと戦います。ここで軍事的才能を見出され、特にマスケット銃を中心に徹底的に軍事の教育を施されました。

その後モーリスはフランスから誘いを受けてフランス軍に入隊し、ポーランド継承戦争では異母兄アウグスト3世と対決することになります。

この戦争で活躍しフランス軍の最高司令官となったモーリスは、オーストリア継承戦争でフランス軍の指揮官となり、オーストリア領ネーデルラント(現ベルギー)に侵入し、オーストリア・イギリス・オランダ連合軍をフォントノワの戦いで打ち破りました。この活躍でモーリスは大元帥にまで昇進しました。

 その後は引退し、軍事学の著作などを記しつつ余生を過ごしました。

ちなみに彼のひ孫は、ショパンの恋人で有名な女流作家ジョルジュ・サンドです。

 

3. 初代ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ 1670-1743(フランス)

ジェームズ・フィッツジェームズの父はヨーク公ジェームズ。後に名誉革命によって王位を追われることになるイングランド王ジェームズ2世です

母はジェームズ2世の愛人アラベル・チャーチル。アラベルの弟は初代マールバラ公ジョン・チャーチルで、彼は後の英首相ウィンストン・チャーチル、英王妃ダイアナの祖先にあたる人物です。

ジェームズは軍人の道を進み、ハンガリーやバルカン半島でオスマン帝国と戦った後、父ジェームズ2世によって1687年にベリック公爵となりますが、1688年の名誉革命によって父と共にイングランドから追い出されフランスに亡命。父と共にジャコバイト(ジェームズ2世を国王と仰ぐカトリック勢力)を率いてイングランドと戦うも破れ、とうとう帰化してフランス軍人となりました。

軍人としてはすこぶる有能な人物であったようで、フランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがフェリペ5世として即位したことがきっかけで起きたスペイン継承戦争では、南ネーデルラント、イベリア、イタリアと各地に転戦し活躍。1707年4月にはアルマンサの戦いでフランス・スペイン連合軍を率いてイギリス・ポルトガル・オランダと戦い大勝利をあげました。

  その後リール包囲戦、バルセロナ包囲戦を戦いぬき、フランスに勝利をもたらしました。

その後は四国同盟戦争でかつて共に戦ったフェリペ5世を相手に戦い勝利を再び収め、次にポーランド継承戦争にも従軍しますが、フィリップスブルク包囲戦で塹壕を視察している時に運悪く砲弾が直撃し死亡しました。

 

4. エドゥアルト・フォン・カレー 1818-1888(ドイツ)

エドゥアルト・フォン・カレーの母はヴュルテンベルク王国の王室に仕えるユリアーナ・シュースラーという女性で、父は侍従のクリスティアン・ヴァーグナーという男とされていますが、実のところ父は国王ヴィルヘルム1世であったと言われています。

カレーの容貌は若い頃のヴィルヘルム1世にそっくりだし、ヴィルヘルム1世が何かとカレーを贔屓にしたため、父が国王であることは皆が知る事実であったそうです。

幼い頃から絵を描くとことが好きだったようですが、ヴィルヘルム1世は画家になることを許さず、カレーを軍人の道へ進めませました。

カレーはあまりやる気がなかったようで、少将に昇進し参謀本部長として普墺戦争にも従軍しましたが、あまり活躍はパッとしなかったようで、戦争終結後に解任されてしまいます。

50歳を超えてからは趣味の考古学・自然科学・美術の世界に没頭するようになり、こちらで遅咲きの才能が開花し、ドイツ国内の古代ローマ時代の遺跡の発掘を進め、生涯をかけて上ゲルマーニア・ラエティアのリーメスの調査を進め、またいくつものローマ時代の砦跡を発掘しました。

ロッテンブルグ・アム・ネッカーで発掘されたローマ式浴場跡のスケッチは、彼自身が描いたものです。すごい克明ですね。

このロッテンブルグ・アム・ネッカーの発掘により、この地は古代ローマから現代まで続く都市であることを証明してみせ、カレーはドイツの歴史学と考古学に多大な功績を残しました。

 

5. テヴィタ・ウンガ 1824-1879(トンガ)

 テヴィタ・ウンガの父は、国王ジョージ・トゥポウ1世。彼は統一トンガ王国の初代国王で、議会の設立や憲法の制定などトンガの近代化を推進した人物です。

母はトゥポウ1世の第二夫人キャロライン・フシマタリリで、彼は他の兄弟たちと共に洗礼を受け「デイヴィッド」というクリスチャンネームをもらいました。「テヴィタ」はデイヴィッドの訛りです。

父トゥポウ1世は近隣部族への征服戦争を進め1845年に首都をトンガタプに置き、統一トンガ王国を設立しました。

ところが1862年に第一夫人の息子で後継者のヴィナ・タキタキマイロイが死亡してしまう。そのためトゥポウ1世は同族による王位継承を諦め、立憲君主国を設立することにします。そして1875年に憲法と新国旗を制定し、1876年1月に息子テヴィタ・ウンガを初代首相に就任させました。

テヴィタ・ウンガは父の征服戦争に従軍した結果負傷して隻眼で、指も2本無かった(親族の供養のために切り落とすという慣習)のですが、非常に背が高く偉大な戦士として尊敬される人物だったそうです

テヴィタ・ウンガは父の仕事を受け継ぎ、トンガ国歌の制定など国家の近代化の仕事を進めますが、1879年に肝臓疾患によって死亡しました。

 

6. マキシム・ウェイガン 1867-1965(フランス)


マキシム・ウェイガンはブリュッセルの生まれですが、両親が誰であるかは定かではありません。

ベルギー国王レオポルド2世とポーランド貴族の妾の子とか、メキシコ皇帝マクシミリアン1世の后でベルギー王室出身のシャルロッテと、ベルギー貴族スミッセン男爵の隠し子とも言われています(シャルロッテはレオポルド2世の妹)。

いずれにせよ、公になったら非常にまずい両親に生まれたことは確かで、ベルギー王レオポルド2世の依頼でユダヤ豪商ダヴィッド・デ・レオン・コーヘンの元でフランスのマルセイユで養育されました。

青年になりマキシム・ド・ニマルという名でサン・シール陸軍士官学校に入学し卒業。フランス陸軍入隊後、フランスに帰化し、コーヘンの部下であったフランソワ=ジョセフ・ウェイガンという男の養子縁組になり、マキシム・ウェイガンと名乗るようになりました。

第一次世界大戦は参謀として活躍し、1920年のポーランド=ソヴィエト戦争ではポーランド軍に軍事顧問として派遣され同国の危機を救う活躍を見せました。

帰国後にフランス陸軍最高司令官に就き軍の刷新を行おうとするも失敗し追放されてしまいます。

しかし1939年にナチス・ドイツがフランスに侵攻すると呼び戻されてフランス軍総司令官に任命されます。しかしフランス軍は弱体でドイツ軍は止められず、なすすべなくウェイガンはドイツ軍との講話を進めました。降伏後はペタン首班のヴィシー政府の国防大臣に就任しています。

その後アルジェリア総督となり、シャルル・ド・ゴールの自由フランス軍にもナチス・ドイツ軍にも協力を拒み独自の路線を進んだため、戦後は一時的に対独協力者として逮捕されるも釈放され、1965年に死亡するまで執筆活動を続けました。

まとめ

王の庶子であり教育や登用のチャンスがたくさんあったということももちろんあるでしょうが、才能もあり努力も怠らなかった優秀な人たちだったんだろうと思います。 

今回はヨーロッパ史メインでしたが、アジアやイスラムの歴史でも同じような「活躍した庶子」を今度まとめてみたいと思います。


参考文献・サイト

物語 スペインの歴史―海洋帝国の黄金時代 岩根圀和 中央公論新社

 "Maurice, count de Saxe" Encyclopedia Britanica

 "James Fitzjames, duke of Berwick-upon-Tweed" Encyclopedia Britanica

Eduard von Kallee – Wikipedia

Tēvita ʻUnga - Wikipedia

Maxime Weygand | Chemins de Mémoire - Ministère de la Défense

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