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一度も敗けたことがないと言われる古代の将軍

 不敗神話が語り継がれる伝説の将軍

人は「強さ」に惹かれます。
戦いの世界では「勝ち」は絶対的で、勝負に一度も敗けたことがないということは、その人物の絶対性を証明するものとなります。
歴史上にはその生涯で「一度も敗けたことがない」という人物が多くいます。
それが伝説なのか、全部の戦いで勝利していたのかは今となっては証明することは難しいですが、不敗神話が語られるほど人々に熱狂的に支持されたのは間違いないと思います。今回は古代世界の

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1. トトメス3世 BC1481-BC1425(古代エジプト第18王朝)


トトメス3世はエジプト新王国、第18代王朝のファラオ。
義母ハトシェプストの死後、エジプトを取り巻く環境は厳しく、アナトリア半島東部〜メソポタミア北部にはミタンニ王国が強大化してシリアの諸都市を配下に加え、エジプト本土への侵攻を狙っていました。
紀元前1457年、トトメス3世は軍を起こして現在のパレスチナ北部メギドに遠征。自ら黄金の馬車に乗って敵主力に突進。ミタンニ側に寝返ったカデシュとメギドに大損害を与え、敗走した軍をさらに追いメギドの町を7ヶ月間包囲し陥落させました。
その後も現在のシリアに計17回の遠征を重ね、シリアからミタンニ勢力を追放することに成功しました。降伏した諸都市からは王族の息子たちを人質として王都に招き、エジプトの教育を施した上で王に就任させるというやり方で支配を強めました。
さらにトトメス3世は南のヌビアに侵攻し、ワワトとクシュという行政区を置いて副総督による統治をさせました。
トトメス3世の征服でエジプトは北はシリア、南はヌビアに至る広大な大帝国となったのでした。 
 


2. エパメイノンダス BC418-BC362(古代ギリシア)

エパメイノンダスは古代ギリシアの都市テーバイの将軍。
スパルタはペロポネソス戦争以降にギリシアの覇権を握り、テーバイもスパルタの支配下に入りますが、テーバイは政治家ペロピダスを中心にスパルタ支配からの脱却を目指してアテナイと結び「第二回アテナイ海上同盟」を締結します。
この動きに警戒したスパルタは講話を求めますが交渉は決裂。スパルタが誇る重装歩兵軍と、テーバイが中心のボイオティア同盟軍がレウクトラの地で衝突しました。これを率いたのが執政官エパメイノンダスです。
スパルタ軍はセオリー通り、左翼に同盟都市の重装歩兵を配置し、右翼にスパルタの重装歩兵を配置。
一方、エパメイノンダスは敵の左翼に当たる歩兵の数を少なくする一方で、右翼スパルタ軍本隊に当たる部隊の戦列を異常に分厚くしました。その上で、いわゆる「斜形陣」を敷き、味方右翼が敵に接触する時間遅らせ、その間に強力な左翼本隊によってさっさとスパルタ軍本隊を粉砕するという戦術を立てました。

この戦いでスパルタ軍は指揮官クレオンプロトスが討ち死にし壊滅しました。
エパメイノンダスは、ギリシアの覇権を目指し軍を率いてペロポネソス半島に遠征を繰り返しテーバイ軍を連戦連勝させます。そしてマンティネイアの戦いでボイオティア同盟軍を勝利に導くも、この戦いで最前線で自ら武器を振るったエパメイノンダスは、敵の集中攻撃を受けて戦死。
その後テーバイは覇権国の地位から転落し、急速に衰えていきました。
  


3. アショーカ王 BC304-BC232(マウリヤ朝)

Photo by Photo Dharma
アショーカ王はインド中に仏教を広め、慈悲をもって統治した模範的な君主として有名ですが、その前半生は壮絶な兄弟争いと征服戦争に血塗られたものでした。
アショーカは幼い頃から学問に優れ武術にも長けカリスマ性がある男でした。成長すると優れた政治家・軍事指導者となり、彼が率いる軍は精強さで名が通るようになります。
あまりにも優秀なアショーカの存在は、父王ビンドゥーサラの後継者を目指す兄弟たち、特に長男スーシマを不安にさせました。スーシマは、父王ビンドゥーサラに進言し、タクシャシラ州で起こった反乱の鎮圧をアショーカが行うように仕向けます。激しい反乱でしたが、伝説によるとアショーカが当地に赴くと、反乱軍はアショーカを歓迎し、血が一切流れることなく鎮圧してしまったそうです。
危機感を募らせたスーシマは父王ビンドゥーサラにあることないことを吹き込み、アショーカをパータリプトラの都から追放してしまう。ビンドゥーサラが病気になった後に王位に就いたスーシマですが、独裁的な手法によって多くの反発を招いてしまう。ラダグプタが率いる反スーシマのグループは、アショーカに連絡を取りクーデター計画をたて、父王ビンドゥーサラの死後、アショーカはパータリプトラに攻め入り、兄スーシマを始め、1人を除き兄弟たちをすべて殺害。王位に就きました。
王となったアショーカは征服事業に取りかかり、西はペルシア国境、東はビルマ国境、南は最南端とセイロン島を除く地域まで領土を拡大しました。
残るはベンガルの南にあるカリンガ(現オリッサ州)のみ。アショーカ王の命令で紀元前265年に行われたカリンガ征服は、州全体が焼け出されたほど壮絶で、何千人もの人々が殺害され、カリンガは廃墟となりました。
鎮圧後のカリンガの惨状を視察してショックを受けたアショーカ王は、以降敬虔で慈悲深い仏教徒になり、仏教の慈愛をもって国土を収める王となっていくのです。
 


4. プブリウス・コルネリウス・スキピオ  BC236-BC183(共和政ローマ)

 Photo by Miguel Hermoso Cuesta
ハンニバルを打ち破ったローマの名将
アフリカヌスという敬称でも有名なローマの将軍スキピオは、第二次ポエニ戦争でカルタゴの名将ハンニバルを打ち破り、共和制ローマを亡国の危機から救ったことで非常に有名です。
紀元前218年、カルタゴ軍26,000はアルプス山脈を超えてイタリア半島北部に上陸。突然の出来事に混乱するローマ軍を蹴散らして北イタリアにて基盤を築き、紀元前217年より南下を開始しました。
ティキヌスの戦い、トレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いででローマ軍を次々と打ち破り、史上名高いカンナエの戦いでローマ軍5万〜7万を殺害・捕虜にする圧倒的勝利でその名を一躍世界中に轟かせたのでした。
スキピオはトレビアの戦いやカンナエの戦いなどローマ軍が大敗を喫した戦いに参加しており、ハンニバルの用兵術や戦術を目の当たりし、そこからハンニバルの軍略を大いに学習しました。
紀元前213年、スキピオは元老院で大演説をぶって議員を説得し、わずか25歳で軍団の指揮官に就任。ハンニバルの家系であるバルカ家が所有するカルタゴのイベリア植民地の拠点カルタゴ・ノヴァを急襲し占拠。その後、ハンニバルの弟のハスドルバル・バルカをバエクラの戦いで破り、ヒスパニアのローマの支配を確立させました。
紀元前205年に執政官に選出されたスキピオは、イタリア半島に留まり続けるハンニバルを追い出すためにカルタゴ本土への侵攻を計画しますが、元老院はハンニバルを半島南部に閉じ込める戦略に固執しスキピオのカルタゴ侵攻に慎重な態度を取ったため、スキピオがシチリア島で編成し訓練した軍は「ローマ正規軍」とは認められず、支援もほとんど受けられませんでした。
しかし士気の高いスキピオ軍は紀元前204年にカルタゴの上陸し、カルタゴ・ヌミディア軍を夜襲で破り、ヌミディア王シュファクスを捕らえ、新たに親ローマ派の亡命王マシニッサを王位に就けました。
ヌミディアを失ったカルタゴ議会は動揺し、南イタリアのハンニバルを本国に呼び戻しスキピオを打ち負かそうとしますが、スキピオとハンニバルの一騎打ちとなったザマの戦いではハンニバル軍はあっけなく敗北。第二次ポエニ戦争はローマ軍の勝利に終わりました。
救国の英雄となったスキピオは、その後セレウコス朝シリアへの戦役にも従軍し勝利をえますが、晩年は収賄疑惑などで告発されて市民に嫌われるようになり、リテルヌムの自宅にこもってローマには戻らなかったと言われています。
 


5. 白起 ?-BC257(秦)

白起(はくき)は秦の昭襄王(しょうじょうおう)に仕えた人で、若い頃から軍事に明るく出世を重ね、昭襄王の十三年(紀元前294年)に左庶長に出世しました。
白起の能力を高く評価する宰相・魏冄(ぎぜん)は白起を将軍に取り立てました。白起はその期待に応え、魏を攻めて伊闕(いけつ)で大勝し24万の首を斬り、韓を攻めて大小の城を61も取り、昭襄王の二十五年(紀元前282年)には、趙の首都・邯鄲に通じる二城を取ります。翌々年には数万の軍で南下し、百万の兵を要する楚に侵入。楚の副都・鄢(えん)を水攻めで攻略し、破竹の勢いのまま首都・郢(えい)を落とします。
帰国後、すぐに将軍・胡傷(こしょう)と共に魏・趙連合との戦いに出発し大勝。13万の首を斬り、魏からは南陽の地を、趙からは河水北岸の地を割譲させました。
 その後、魏冄に代わって新たに宰相となった范雎(はんしょ)の命で韓を攻め、韓の領土を南北分断させました。韓王は北部の上党郡を秦に割譲することで秦と和睦しようとしますが、反秦感情の強い上党郡は「秦の一部になるくらいなら」と勝手に趙に身売りをしてしまいます。
激怒した昭襄王は将軍・王齕(おうこつ)を上党の長平城に送ります。対するは趙の名将・廉頗(れんぱ)。廉頗は巧みな戦術で戦線を長引かせ、戦いは三年も続きました。宰相・范雎は司令官を王齕から白起に変え、次いでカネをばらまいて趙国内で流言を流し、廉頗を司令官から外し、無能な将軍・趙括(ちょうかつ)に変更させました。
白起は趙括の率いる軍をおびき出し、大軍で包囲し40万もの兵を降伏させました。白起は反秦感情の強い趙兵を生かしては後に反乱の種になるとして、40万の兵を残らず殺したと言われています。
白起は趙の首都・邯鄲攻めに取りかかりますが、昭襄王と范雎は白起に命じて軍を停止させてしまう。激怒した白起は病気を言い訳にして出仕を拒否し、その後も出仕の命を拒否しつづけたため、昭襄王の命令で自殺に追い込まれました。
 


6. 韓信 BC230?-BC196(漢)  

韓信はもともと項羽に仕えていましたが、重用されなかったため主君を変え、漢王劉邦に仕えました。
韓信の才能をいち早く見抜いた丞相・蕭何(しょうか)が「韓信は国士無双なり」と進言し重用を勧めたため、劉邦は韓信を取り立てて将軍の地位を与えました。
韓信はそれに応え、戦下手な劉邦を支え、魏を滅ぼし、次いで趙と燕を屈服させた。そして強大な斉をも滅ぼし、劉邦に認められ斉王の地位を手に入れ、楚攻めを行なっている劉邦の元に大軍勢で駆けつけ垓下の戦いで項羽軍を打ち破り楚を滅ぼし、漢による統一が成し遂げられました。
韓信は漢王朝立役者の第一功労者で彼なしに天下統一はありえなかったほど大きな働きをしました。
韓信も自らの献身に誇りと自信を持っていましたが、彼は人を疑わないお人好しなところがあり、劉邦から厚遇されているため大きな信頼を得ていると信じていました。しかし劉邦は自分の部下たちを全く信用しておらず、いつか自分の寝首を掻くのではと猜疑心に苛まれました。特に天下を取った後は、巨大な領土を持ち、戦上手で部下の信頼も厚い将軍たちがどいつもこいつも信用ならなく思えてきて、韓信も兵を削減され、囚われの身となります。
韓信は「狡兎死して走狗良狗烹らる(獲物のウサギがいなくなったら猟犬は煮て食われる)」と言ってとうとう劉邦の意図を悟り激怒し、反乱を起こそうとしますが誅殺されてしまいました。  
 


7. ナルセス 478-573(東ローマ帝国)

ナルセスは東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世に仕えた宦官。
出自はアルメニアの貴族の出自である彼は、財務官僚からキャリアをスタートさせ、次第に頭角を表し皇帝の護衛隊長となりました。
532年、帝都コンスタンティノープルの暴徒が皇帝の宮殿を包囲した「ニカの反乱」でユスティニアヌス1世を救い出したことで皇帝の信任を得て、「東ゴート王国征服司令官」に任命されました。
当時、名将ベリサリウスによって蛮族や周辺国家によって侵略されたローマ帝国の旧領土回復戦争が進んでいましたが、イタリア半島を本拠とする東ゴート王国では新王トティラの元で東ローマ帝国軍が駆逐されており、それに対応するためベリサリウスの代わりにナルセスが司令官に抜擢されたのでした。しかしナルセスはこれまで戦闘を率いた経験は一切ない!
しかしナルセスは、戦場の経験がないにも関わらず、ベリサリウスの戦術を学んで自分のものとしてしまいました。
552年、ナルセスは3万の軍を率いて北からイタリア半島に侵入。 東ゴート王トティラはローマから軍を率いてタギナエで迎え撃ちますが、奇襲攻撃をしかけようとして東ローマ軍の包囲陣に飛び込んでしまい、弓矢の集中攻撃を浴びて壊滅。トティラ自身も死亡しました。
タギナエから敗走した東ゴート王国軍は、新しくテーイアという男を新王に据えて戦いを継続します。しかしナルセスはモン・ラクタリウスの戦いでまたも東ゴート王国軍を打ち破り、テーイアも討ち取ります。
相次ぐ敗北と王の討ち死にによって混乱した東ゴート王国は崩壊。残党がヴェローナやブリクシアで抵抗を続けますが、562年までにナルセスによって鎮圧されました。


 
8. ハーリド・イブン・アル=ワリード 592-642(イスラム帝国)

ハーリド・イブン・アル=ワリードはイスラム帝国を拡大させた第一功労者ですが、元々はメッカの軍事指導者で預言者ムハンマド率いるメディナのムスリム軍と敵対する立場でした。
ところがイスラム軍の攻撃によりメッカが弱体化したため、メディナに移りイスラム教を受け入れました。
預言者ムハンマドの死後、初代カリフ、アブー・バクルはハーリドにイスラム軍の統帥権を与え、ムハンマド亡き後イスラムから離反した都市を征伐させました。
次いで、ペルシア帝国支配下のメソポタミアに侵入。現在のイラク領内にあるメソポタミア南部を支配下に入れました。
ハーリドの活躍を聞いた2代カリフ、ウマルは、ハーリドを東ローマ帝国領シリアに派遣。シリアではアブー・ウバイダがシリア方面軍を指揮し東ローマ帝国軍や現地アラブ人と戦い苦戦を強いられていました。
ハーリドが到着するとイスラム軍は連戦連勝を重ねるようになり、4〜6ヶ月の包囲戦の末、重要都市ダマスカスを陥落させ、レヴァント諸都市、アレッポを含む北シリア、そしてエルサレムまでを征服。アナトリア半島にも侵入し、要塞都市アンティオキアをも落としました。
しかしハーリドはあまりにも活躍をしすぎ、多くの人から嫉妬を買うようになってしまい、とうとう金銭の不正着服の疑いで第2代カリフ・ウマルによって軍の指揮権を奪われてしまいました。
 


9. ターリック・イブン・ジヤード ?-720 (イスラム帝国)

Credit: Theodor Hosemann (1807-1875),  Little-Known Wars of Great and Lasting Impact: The Turning Points in Our History We Should Know More About
ターリック・イブン・ズィヤードはイベリア半島の大半をイスラムの支配下に組み込んだ将軍です。
 
ターリックは長年北アフリカ総督ムーアの片腕として活躍していましたが、ムーアがイベリ半島に対するジハードを実行するにあたってターリックは指揮官に任命されました。
ターリック率いる7,000のイスラム軍はジブラルタル海峡を渡り、まずはアルヘシラスの町を攻略。援軍を得て12,000まで増強されましたが、相手の西ゴート王国軍は10万は超える大軍勢。しかも王ロドリーゴ自ら率いていました。
しかし、グアダレーテ河で衝突すると、イスラム軍は破竹の強さを見せ、西ゴート王国軍は壊滅。王ロドリーゴは混乱の中で河で溺死しました。
西ゴート軍は恐慌状態となり撤退に撤退を重ね、ターリックは軍を4つに分けて逃げる西ゴート軍を追って進撃を続けました。
ターリックは約2年で諸都市を攻略し、ピレネー山脈の麓に到達。
最終的に、アストゥリアス山脈にこもるドン・ペラーヨ率いる西ゴート軍残党の攻略に取りかかりますが、どういうわけかダマスカスのカリフ、ワリド1世から帰還命令が出たため、最後まで征服を完了できずに撤退を余儀なくされました。
このわずかに残ったキリスト教徒の土地が後にレオン王国となり、後のスペインの母体となっていきます。
ターリックは720年にイベリア半島に戻ることなく、ダマスカスで死亡しました。


まとめ


長くなってしまいました。大活躍した将軍をたくさん紹介しようとするとどうしても長くなってしまいます。
 一度も敗けたことがない、というのは若干伝説を含んでる感があって、本当にそうなのか定かではないのですが、それだけ大活躍して人々の人気が高かった将軍ということになると思います。

 
参考文献
決定版ゼロからわかるエジプト 近藤二郎 学研
新書英雄伝 有坂純 学研
戦国名臣列伝 宮城谷昌光 文集文庫 
物語 スペインの歴史―海洋帝国の黄金時代 (中公新書) 岩根圀和 著
 
参考サイト
"Ashoka " Cultural India
"Khalid ibn Al-Waleed" Islamic History
 "Tariq bin Ziyad — The conqueror of Spain" ARAB NEW

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