「言葉」とうまくやっていくために

言葉の無力

説明したがりの友人がいました。自分が小さなミスをした経緯を、発端から順を追って話したい、と言うのです。

説明してほしがりの恋人がいました。別れ際に、私の何が悪かったかを教えてほしい、と言うのです。

僕も説明したがりだし、してほしがりです。例えば、こうして何か伝えたいことがあれば平気で言葉にするし、スーパーに並ぶ野菜の生産者は顔どころか趣味や愛車も見せてくれと思います。

しかし、説明によって解決できない問題も多い。というか、ほとんどの問題は説明だけでは解決できないのではないでしょうか。

当たり前の話ですが、僕らは言葉を使う世界に生きています。もちろん言葉を使わない部族がいる可能性はありますが、彼らも何かしらの信号を送りあって意思を疎通しています。

その信号に行き違いが生じると、トラブルが起きる。しかも、それは同時に行き違いと認識されることなく、どちらか(誰か)が先に気づく。そして、最初に気づいた人がいちばん傷つく。

それは、すり傷かもしれないし、もっと深い傷かもしれませんが、深すぎた場合、自然治癒は難しく、誰かに治してもらわなければ生活が立ち行かなくなります。そのときに、説明や言葉というのは、大きな手助けにはなるが、万能薬ではない。

まだ小学校に上がる前くらいの頃を思い返すと、転んだり、叩かれたりなどの身体的なダメージはあっても、個人的には、言葉による精神的なダメージは少なかったように思います。

それは、そもそもボキャブラリーが少ない者のみのコミュニティにいるから、精神に食らわせるような言葉を誰も持たなかったことや、そういう環境では生活を揺るがすような悪意のある事件が起きにくいことの影響がありそうです。

それが、徐々に言葉を覚えるにしたがって、何処からともなく人を傷つける言葉もインプットされ、しかしその使い途を教わることはない。使っちゃダメとしか言われないから、使いたくなるのは、自然です。

ある程度まで歳を重ねると、法律やマナーなど、すでに誰かが決めた言葉によって生活が規定されているから、なかなか転んだり蹴られたりすることもありません。しかし、その「言葉」自体はまったく規定されておらず、みんな自由に使っていいことになっているから、僕らが今受けるダメージはほとんど言葉による、精神的なものです。もちろん他人に与えるダメージも、そう。

あなたも、この傷が、身体的な傷だったらどれだけ良かったかと、思うことがあったのではないですか。心の傷、という使い古されたが、使い古されているがゆえに普遍だと言える患部は、言葉が生まれていなければ負うことはなかったでしょう。

では、その心の傷を手当てするために、説明や言葉が万能でないなら、どうしたらいいのでしょう。自分が謝っても謝り切らないことや、いくら励まされても楽にならないことと、どう付き合っていくべきでしょうか。

論理性を信じすぎない

言葉を大切にする人の中に、その論理性に評価軸を置いている人がいます。つまり、ちゃんと前後の文章が繋がっていて意味も通っているか、というようなことです。

確かに、論理的でない文章は信頼しづらいし、ときに事実と大きく異なる主張をする人もいるので、この情報のドブ川から砂金を拾い当てるには、ひとつ有効な方法だと思います。

しかしながら、論理的思考で生まれる言葉が、全ての人の悩みを解決するわけではありません。なぜなら、人の悩みは論理的ではないからです。映画で、狂った科学者の作った爆弾が、一流の爆弾処理班でも解除できずに爆発するというシーンを想像してみてください。爆弾処理班が論理的思考で、狂った科学者が悩んでいるあなたです。

科学者も、あなたも、最初はみんな論理的です。何が悪かったか、何を間違えたのか、冷静にこの事件を整理しようとします。配線をいじりながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤するうちに、いつの間にかこんがらがって、誰も解除できない爆弾ができあがってしまう。

SNSでも、誰かに論理的で賢そうな文章でアドバイスをしている人の中に、ただただ論理的な文章であるだけで、悩んでいる人の抱える奥まった部分を理解していないのではないかと感じる人がいます。

悩んでいる側はまさか自分がいま抱えている問題が、論理的に解決できるようなものでないとは思わないので、言葉上のやりとりで解決したかのように見えるのですが、実際は全く根本的に解決されていない。

だから、そもそも言葉による説明で、論理的に解決したところで、心の傷までそれは届かない。謝ったところで傷ついたことには変わりない、という主張と同じです。

感情的になるべきとは思いませんが、論理的であれば言葉マスターであるとか、だいたいのことは説明がつくなんて思わないほうが、生きやすくなるのではないでしょうか。

悪意を受け流す

もう少しSNSの話をしたいのですが、本当に、ほんとうに、悪意を持った発言が多いですね。政治に関する議論もそうですが、趣味レベルの会話でさえも、です。相手を傷つける言葉を敢えて使う人がいて、それに傷つく人もいれば、俺の方がもっと傷つけられると反撃に出る人もいます。

正直、子どものケンカのようですが、不思議なことに、感情的なやり合いはほとんど見られません。一見すると賢そうで、論理的で、いかに不敵な存在であるかという点で競っているようにも見えます。相手を威嚇するために、自分を大きく見せようとする昆虫のようです。ただ、人間の場合は、その威嚇の要因に、他人への怖れがあると感じます。

世の中の人々はそれぞれ何かにストレスを感じながら、それを発散する場所を探している、という言説が現れて久しいですが、その理由に「顔が見えないこと」は確実に関係しているでしょう。

顔が見えないということは、極端に言えば、みんな文字情報として存在しているということです。芸能人だとか、例えば僕なんかでも、すでに顔と名前を公表しているため、表情や声色も含めてその人が話している感覚で受け取れます。

しかし、文字情報しかない人が、文字の羅列で発信しても、趣味や文章によっぽどシンパシーを感じない限り、完全なる知らない人です。知らない人を、現代人は怖がります。なぜなら、自分の存在を脅かすかもしれないと疑っているからです。

そして、その知らない人が、ある分野において自分より上級者である可能性、それに対しても怖れを感じます。なぜなら、自分の個性や、存在していい理由を脅かすかもしれないと思っているからです。

中学生のときは足がいちばん早かったのに、高校生になったらそんなレベルの子はゴマンといたとか、学力とか、歌唱力とか。そういうのが、SNSによって世界レベルで可視化されただけなのに、顔が見えないから、何か物申すチャンスがあれば逃さない。そういうスタンスになってしまう。

これは、それこそ言葉によって起きた問題だと思います。個性なんて最初からあったはずなのに、それを強調し始めてから、個性がなければ人としてダメであるかのように感じ、他の人と比べたくなる。それは僕もそうです。

僕は、ゆとり教育の世代だから、高校のとき、個性について考える授業なんて受けたけれど、あなたの個性は?と問われても答えられなかった。周りにも「特にやりたいことないな」と困っている子がいました。

ただ、そんなことを考え始めても、意味がありません。飯を食って寝て、その生活を僕らの子どもの世代以降ずっと続けていけることがいちばんで、個性がなくても、役割がなくても、生きていればそれで十分です。

言葉における悪意は、その人のコンプレックスや悩みから無意識に発せられている可能性が高い、と読んでいます。だから、その悪意をぶつけられたとき、悪意で応戦せず、その人の存在をただ肯定して、受け流すというのはどうでしょうか。

言葉は残るが、人は変わる

もうひとつ、SNSでの言葉の扱い方について気になっているのが、過去の言動と現在の言動の不一致に対する批判、いわゆる「ブーメラン」という論理です。

これもまた、政治の議論に関してはややこしいので置いておくとして、何か現代において刺激的な発言をした者は、過去にその発言に見合う言動をしていたのか、とアラを探される傾向にあるように思います。

例えば、その発言が誰かを批判する内容だったとして、その批判された内容と反する言動が過去に見られた場合、それを引き合いに出して、昔(もしくは今)の自分に返ってくる言動ですね、という皮肉を込めて「ブーメラン」と呼ぶようです。

これも悪意に通ずるものを感じますが、これは現代に言葉が溢れすぎて、ひとつひとつの情報を信頼しづらくなっていることから起きていると考えられます。

おそらく「ブーメラン」論理で批判する人々は、その人の発言がホンモノかどうかを確かめたいのではないでしょうか。

確かに、お金が無いという発言に同情が集まっているとき、少し意地悪な人は過去の言動を遡って、無駄遣いをしていたのではないかとか、そもそも稼ごうという意欲を持っていないのではないかとか、調べたくなるかもしれません。

しかし、命は大切にしようという発言をした人が、昔に誰かを死なせてしまっていたとしたら、これは「ブーメラン」になるのでしょうか。きちんと裁かれて、刑期を終えて戻ってきた人の発言だとしたら、むしろ含蓄のある言葉として、先のお金に関する発言者に比べたら、より多くの人に受け入れられるのではないでしょうか。

ここで僕が架空の発言を並べたところで、「ブーメラン」への批判の体を成していないのですが、僕のいちばん言いたいのは、お金がないのも、命は大切にしようも、誰も傷つけていない言葉だということです。

架空の発言にすぎないにしろ、これと似たような構図のやり合いが、日々起きています。発言した側は思わぬ疲弊を感じているでしょう。いま、誰かを傷つけたならば、いま、批判されてしかるべきですが、そうでないのなら、寄ってたかって他人を疲弊させる必要があるのでしょうか。

これも単なる想像に過ぎませんが、みんな、他人のことを単一のキャラクターとして捉えていることが考えられます。つまり、金を稼ぐ気のないやつが金が無いとか言うな、ということです。

金が無くて同情を引くようなキャラクターは、常に困っているべきで、よっぽどのストーリーがない限り過去においても金がない状態であるべき、と考える人がいる。過去が言葉によって可視化されていることがその一因にあるでしょう。

いつも信頼の時代だから、一貫性を他人に求める気持ちも分かります。しかし、人は変わります。人を死なせても、裁かれて刑期を終えたら、考え方が変わっているという人だっているのと同じです。

これは、もう僕の実感による裏付けになってしまいますが、自分の小学校の頃の文集や授業ノートを見ると、まるで今の自分と違いますし、むしろ思いもよらなかった趣味やこだわりを見つけます。小学校時代と今の15年間ほどでこれだけ変わるのに、15年後に僕の趣味や考え方が変わっていないはずがありません。と思わざるを得ない。

だから、誰かの過去の発言に苛立ったり、自分の発言をあとになって恥じるとしても、いまは違う人間なのだと、もう同じ過ちは繰り返さないのだと考えることで、一旦落ち着いてほしい。

過去に使われた言葉に対して固執し続けることは、いまの自分(誰か)に対して悪いですよ。

かと言って、気をつけなければならないのは、だから今、好きなことを好き放題発言してもいいとは限らないという点です。もはや、過去も言葉で可視化される時代ですから、発した言葉は残ります。そして、時間を越えていつか誰かを傷つけることがあります。

それを分かった上で発言したほうが、いずれ人が変わったとしても、過去の自分の発言を恥じて悩んだり、後悔する機会も減るのではないかと思います。

言葉は有限だと考える

ここからは、言葉を発しすぎてしまう問題について考えます。

先に爆弾の話をしましたが、僕も、大切な人たちの爆弾を解除しようとしては、失敗どころか、何度も爆発させてきました。もちろん胸を張って言えることでもないですし、プライバシーの問題もありますから、内容は語りません。

ただ、僕は説明したがりなので、なぜ爆弾を解除をしたかったのかだけお話ししたい。

小さなころから僕は、頭で物を考えることは好きでしたが、意見をハッキリと誰かに伝えることは苦手でした。だから、何か勘違いをされたり、ケンカをしても、うまく自分の意見を言えずに、自分の中で何度も反芻しながら、僕が悪いのか、正しいのかを考え続けていました。

それを、どうにか人に伝えられるようになったきっかけは、初めての恋人との別れです。別れる間際になっても、うまく自分の気持ちが言えず、何なら普段の愛情表現からダメダメで、このままではまずいと思ったわけではありませんが、いつの間にか意見を言えるようになっていました。しかし、それでもハッキリとは言えない。

言葉をハッキリ誰かに伝えられないことがコンプレックスになった僕は、その反動で、頑張って人に意見を伝えようと躍起になります。そして、それが伝わると、少し自分が成長したようで嬉しい。それが、「伝えたい」「救いたい」という爆弾解除欲求に繋がったのです。

そんなだから僕は、おそらく今でも、自身が発する言葉の無力さに気づいていません。説明すれば分かってもらえると思っているし、分かってもらうために説明を重ねます。相手もそういう気構えでいてくれることが多いです。ところが先に話したように、言葉を尽くしてもどうにもならないことが、実際にあります。

そういうときに、今までは、相手が理解してくれるまでずっと言葉を並べ続けていました。並び順を変えたり、別の単語に置き換えたりして、相手に伝わる有効な方法を探っていったのです。ときに面構えは感情的になりながらも、この口から出る言葉だけは論理的であるように、頭をフル回転させながら。

あるとき、僕は言葉が飽和した瞬間を感じました。

語れば語るほど、疲弊していくのです。僕も、そして相手も。相手が疲弊するのは、僕のことが面倒だからというよりも、理解しようと思っているのに理解できないからです。このとき、論理的な言葉を積んだところで解けない回路があることを知りました。

そして、自分が思ったことを誰かに伝えることで、僕のコンプレックスは解消されても、相手が言葉を浴びすぎて疲弊する、ということが分かりました。言葉を尽くしながらも、そのどれを吐き出すべきで、どれを飲み込むべきかを分かっていなかった。

言葉は無限にあるから、無限に使っていい、というわけではない。確実に自分や誰かの資源を切り崩して発せられている。そう、よく自分に語りかけます。使い切ったら、その人はどうなってしまうのでしょうか。

これは、恋愛に限った話ではなく、もちろん仕事や友人関係でも感じることがあり、ずっと試行錯誤しているところです。

言葉は、後からついてくる

言葉とうまく付き合って生きるには、言葉の性質をできるだけ分かっておくことが大切だと思います。僕が素人なりに挙げた例は、その性質のうちどれだけを補っているか分かりませんが、何かのきっかけになってもらえれば幸いです。

大学の信頼していた哲学科教授が、「分からないものに無理やり名前をつけようとするな」という言葉を口にしたことがあります。「ますます分からなくなるぞ」と、その後付け加えていました。

言葉をある程度使えるようになった僕らは、言葉によって現実を捉え、支配しようとしがちですが、この世界のほとんどを言葉で明確に表せるとは思えません。むしろ、言葉で理解しようとすることで分からなくなってしまうこともありますから、そこまで簡単なツールではないと思います。

言葉は、何か終わった事柄にしか使えません。終わってみないと、それが実際何だったのかは分からないからです。分からないのに、無理に言葉を当て込んで、分かったつもりになっている人が多いな、と思う。

だから、言葉で救われない、言葉で慰められない、そういった状況に陥ったときは、ひとまず自分を肯定してあげてほしいです。何より重要なのは、自分の状況を無理に言葉で規定することではなく、どんな状況であれあなたが存在することは当たり前で、サイコーだということです。

その上で、何か言語化以外の方法で、行動を始められたら、今のサイクルから抜け出せるかもしれない。僕は、そうして悩んでいる人々の背中を押したい。ですが自分もその悩んでいる人々の一員であり、行動するのにも固まってしまって動けないことがしょっちゅうです。

だけれども、だからこそ。無理だと分かっていても、自分の中で言語化を諦めずに続けることだけは、忘れずにいます。あなたがこの手紙を読んでくれていることに感謝しながら。

ありがとう。まとまらない文章ながら、ひとまずこうしてお話しできてよかったです。言葉がなかったら、もっと伝えられたのかもしれないけど。


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