マガジンのカバー画像

まいにち土鍋

246
「365日の土鍋コッチョリーノ」 蒸す、炊く、煮る、焼く...などの調理法と土鍋サイズを記すだけの質素な日記。レシピは別にしたためているので、いつの日か有効活用できればいいな。
運営しているクリエイター

2022年7月の記事一覧

インゲンの胡麻和え 土が語ること #まいにち土鍋

我が家が長いことお願いしている農場の無農薬野菜は、市場に出回っている野菜よりどれも味が濃くておいしいのだけれど、インゲンなどは別の野菜なんじゃないかというくらい甘い。外側のさやの味となかの豆の味ふたつの味がする。 シンプルな野菜ほど、奥が深い。 梅雨が短かった今年の夏は、雨が少ないかと思いきや、ほどよく雨も降っているとのことで、野菜がとても甘いような気がする。落ち着いた土の味がする。 🍃 🍃 🍃 青二才で冒険好きなわたしの背中を、何十年も押してくれた人生の

ナスとピーマンの味噌炒め お土産の味きっと思い出に #まいにち土鍋

もう20年くらい取り寄せている無農薬野菜の農家から大きくて鮮やかなナスが送られてきたので、できるだけ野菜が主人公になる料理にしたいと思った。出かけた帰りに、色味と歯応えのためにしゃきっとした緑と赤のピーマンを買い足した。 青年は、小中高校のころから、合宿旅行など、親なしで毎年どこかに旅に出ており、小さなお土産を買ってきてくれたものだが、おもしろいことに塩や醤油や味噌など調味料的なものが多かった。わたしの喜ぶポイント知ってるな。 先日、すっかり成人した彼が出張先で買ってきて

スイカと氷 #まいにち土鍋

スイカの日だなんて、知らなかった。 まいにち誰かの日で、まいにちなんかの日なんだろうな。スイカ、おめでとう。 🍉 🍉 🍉 さて、きょうはスイカの入っているうつわについて。「スープカップ」でなく「スープ皿」と呼べるような形のものが私自身の食卓に欲しかったので、もう8年くらい前になるかな、スープ皿コッチョリーノを誕生させた。 飲むというより、食べるというニュアンスに近いスープのために。カレーライスを思い浮かべればよくて、スープや汁に麺やごはんをドボンとさせても沈

ペストのサラダ 静かな凪のような道を想像している #まいにち土鍋

世の中の矛盾が自己にも入り込まざるを得ないその葛藤を鎮めている。 冒険のごとく険しい我が道だけが道ではないんだよな。沢山の道が並行して走っているのが世の中。すり合わせるのも世の中。自己決定できない母の道を代わりに選択する身として、鳥のように飛び俯瞰して人の道を探すくせがついた。その能力を磨くには、もっともっとシンプルに光と影が感じられる生き方が必要だと思う。 さて、最後にシンプルな料理を一品。 アボカドを賽の目に切って、ジャガイモを一口大に切って、プチトマトを半分に切っ

ジェノヴェーゼではないわけ #まいにち土鍋

「ペスト」や「ジェノヴェーゼ」 「〜エーゼ」(例:ジェノヴェーゼやミラネーゼなど)や「〜アーノ」(例:シチリアーノやヴェネツィアーノなど)は、地名の語尾につけて、その土地のもの、その土地の人を示す言葉。 イタリア半島、リグーリア湾をジェノバからチンクエテッレの方へ南下した海沿いから山に少し登ったある村に師匠の夏の家があり、そこで過ごすことが多かった。今年も行けないけど。 海の近くの地元のよろずやで松の実(ピノーリ)を買って、リグーリアの庭で採ったバジルでつくるので、わた

漢方薬をまなぶ #まいにち土鍋

漢方講座合宿。午前中は野草探索、そのあとは座学。7時間まなび仲間と料理をつくり23:00まで夜の部。そして雑魚寝。翌日も5時間。電波が悪いのと時間がとれないが充実は何に変えられよう。 取り急ぎ講座でのんだ漢方薬(煎じたお茶)。 古典漢方を学んでいる。うつわと食に関わる人と自然。食に偏りのないこと、物事のレッテルをはらないことなど、漢方学の哲学は生きる道に大切なことばかり。漢方とは内服、外用だけでない。「生きることは食べること、食べることは生きること」と、先生はおっしゃる。

がんもと厚揚げのみぞれ煮 反省する土鍋 #まいにち土鍋

ヴィンテージコッチョリーノやらとお客さまに手に渡りちょっぴり気取って名乗っているけれど、実はどうしてもお売りできないものもある。 割れやヒビが使用に支障をきたすもの。それともうひとつ、使い勝手が悪いもの。 ひびを金継ぎしたものなどは前回のヴィンテージコッチョリーノでお出ししたが危険性のないものに限り。さすがに「使い勝手が悪いもの」だけは出せない。いや、出さない。プライドは低いようだだが、唯一のポリシーはあるようで。 写真は、その反省すべく土鍋コッチョリーノ。つまみのない

ズッキーニとレモンのピクルス #まいにち土鍋

居心地とはなんだろう ある地方のシェアオフィス、シェアミーティング施設の見学にいったら、玄関先に「ズッキーニお持ち帰りください」という箱を見つけた。近所の農家からのご寄付か、利用者が育てたものか。時折ガソリンスタンドなどでも、唐突に「野菜どうぞ」みたいなところがあって、なんとなく嬉しい。どちらにしても、こういう実は最も素朴なコミュニケーションの在り方っていいなと改めて思った。 シェアオフィスというと、おお!カッコよいスペース!というのが多かったから、見えていなかった「たい

舟形皿「夏の湖」 #まいにち土鍋

美しく泳ぐ魚 静かに応援してくださっているお客さまがたくさんいることを忘れることはない。学生時代から、イタリア修行時代から背中を押したり手をさしのべてくれた友人がいることも然り。 展覧会へのご来訪、ネット予約やご購入のお客様の半分くらいは、SNSやブログで交流のあるかたかなと思いきや、個展でお会いする方々に聞くと、ふだんは交流なく静かに読んでくださっているかたが8割くらいである印象。知人や古い友人であっても、むかしからおどけてたわたしを静かに見守ってくれている。家族や親戚

ジャガイモと玉ねぎのヨーグルトクリームサラダ 耳のあるうつわ #まいにち土鍋

うつわとからだ うつわには「耳」「足」「口」「胴」「腰」がある。ポットには「鼻」「手」「尻」なんかもある。 うつわの「耳」と「手」は、いわゆる把手というものだが、特に決まりはなくて、他の言い方をしたっていい。つまむ、はさむ、ひっかけるは「耳」、つなぐ、にぎるは「手」という感覚。擬人化は生活の中での愛着ゆえのものでもあり。写真の耳がついているスープ皿は、残り少なくなったときに耳をはさんで傾けると最後まで食べやすい。熱い料理が入っていても耳をつまめば支えやすい。 うつわよ、

やさしい土鍋とうぬぼれ #まいにち土鍋

土鍋とうぬぼれ 「ガスコンロをIH調理器に変えられますよ」と、介護サービスのかたが言ってくださったので、娘コッチョリーノとしてIHで土鍋が使える道具がないかと奔走したが、手遅れだった。いや、手遅れとか、機会損出とか、そういうことではなかったのだ。いや、今ならわかる、炊かないのでなく炊けなくなってしまっていたのだ。 食べることが好きだった母。料理もひと通りつくってくれる人だったが、ごはんを炊かなくなってしまったのは、あの時からだったかな。 「ごはんだけでも炊いたら?」なん

土鍋いっぱいヨーグルトのコールスローと書庫の罪 #まいにち土鍋

外はお天気でも、地下室にもぐって本棚からすべての本を出している。誰にとっても蔵書は宝だし、多種多様な気持ちを調えて手放すのだろう。わかっている。 昨年末に大きく一回、そしていま第二回の絞り込みをしている。家人とふたり同じ本棚を持っており、彼はベルギーIKEAで30年くらい前に、わたしはミラノIKEAで25年くらい前に買った棚を互いに2列分、3列分と所有しており奥行き3列で入庫させたりする。IKEAのイメージを覆すごとくこのシリーズは丈夫だ。 「これでも減らしました」と言っ

タマゴ炒飯を食べながら根っこと足あとを想う #まいにち土鍋

コッチョリーノのうつわに「根っこ」と「足あと」が描かれていることは、ことあるごとに説明してきたかもしれないけど、きょうもまた書くことを許してね。 タマゴ炒飯を食べながら、もういちど書くことにした。 足だけで大地をふみしめていても、吹き飛ばされそうになる。水を求めてまいにち歩きつづけても、枯渇してしまう。だから根っこを生やす。90年代、多くの時間をイタリアの生活に費やした。いつも吹き飛ばされていたから根っこを生やさねばと心は急ぎ焦った。足元をみると、生やしてきたはずの根っこ

レモン添え夏のカルボナーラ 無言のもぐらたちに想う #まいにち土鍋

無言のもぐら 数時間ねむっても取れなかった疲労を背負って電車に乗った。夏らしいのか、夏らしくないのか、ひしめきあう電車のなかの無言の人々は体感温度を顔で表現していない。 東京中心のハブステーションで早足に乗り換えるものの、すれ違う人の顔をみてたから、目的の電車に乗り遅れそうになった。電車が地下から地上に出たのでふぅと一呼吸したけれど、人々は無言の土竜だった。大きな鉄橋を渡る。ひしめきあう電車のなかの無言の人々は景色の美しさを顔で表現していない。 母は、だんだんとまいにち