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ちょっとブレイク なぜえんえん嗚咽するくらい心の中で喜びの涙を流すのか

今回の個展で展示即売させていただいた数百点のうつわは、おかげさまでみなさまにお選びいただき手元から笑顔でさよならしていった。息子や娘が手から離れていく気分。育てた育てた!という達成感に近い。

生んで育てて(デザインして成型して)、いい子もわるい子も(いいものもわるいものも)ないんだよ「これが個性だよ」と育てる(つくる)ことは、時間や対価に代えられない。


太陽や月がない世界なんて

全日満員御礼、完売といっても個人のアートはビジネスからほど遠い。では、なぜわたしはこんなに心の中で喜びの涙を流し、心身ともに過酷であるアーティストをつづけるのか。さめさめでなく、えんえん嗚咽するくらい(本当です)の喜びに満ちて泣く。それを隠すから数日間めいっぱいの疲労で困憊するわけで。なぜってね、アートや子育ての世界が回転しなければ、太陽や月がない世界になってしまう。大げさかもしれないけれど、そのくらいのものだという使命をもって前を向いているから、大勢の理解と応援に嬉し泣きする。


対価でなく糧である

わたしがいただくものは「対価」でなく「糧」である。明日もつくれる「材糧(材料)」と、腕や身をうごかす「食糧(食料)」をいただき、生活がまわる。地球上の無機物から有機物的な世界をつくることができるのだ。

「とはいってもビジネスにしなきゃ」としょっしゅう言われるが、アーティストの手はひとつである。真剣に技術を、丁寧に材料を、投入すればするほど対価では計れなくなってくる。このごろは、対価の話ばかりが耳につく。時間スピードが速くなり、物事の見え方や考え方のスタンスが短いのではないかな。太陽が出たから「+いくら」、月が見えないから「-いくら」なんてない。あったら人間みな破産だ。

FXの世界では「人の行く裏に道あり花の道」と言うけれど、アートという個性や生活における個性(家事や子育てや介護などなど)の道は「花の道」が終着とも限らない。「人の行く道」を意識している段階で、きっと落ち込んでしまうだろう。とにかくひとつひとつ違う種を蒔く作業。蒔いたら自分の前で必ず花が咲くという感覚をなくさないと、対価のない道は歩けない。

太陽や月をみならってもっと気楽に生きていたい

プロダクト製品あるいは人工知能のものづくり。合理性や未来を否定するほどのエネルギーはあいにく持ち得ていないし、おそらくアートに類似する太陽や月を未来が変えてしまったら、この世はおしまいだと思うから。黙って貫くべきことだけもっていたい。太陽も月も厳しい世界に生きていると思う。それでも、毎日どこかに存在する。

つまるところ、もっとそれぞれが違っていてよくて、個性が尊重されて、失敗したら立ち上がり、ダメでも肩をたたいて、太陽を仰いで、月をつついて、そこに「糧」を抱き、気楽な未来よこい!と思っている。


展覧会にきてくださったみなさま、ありがとうございました。えんえん泣くくらい嬉しかったのです。齢はきっと読んでいるみなさんより十分重ねているかもしれないのに、いつまでも大人になれないくらい泣いてしか表現できません。じょうずに伝えられないけれど、とにかく毎回そういう感じなのです。これから個展がもう一回できるくらいのオーダー作品をつくり、次回春の展覧会の新作を考えて毎日を暮らします。あと何年つづけられるかな、この喜びという嗚咽を。 コッチョリーノ 我妻珠美


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