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ちょっとブレイク「うつわと食器棚」

パスクア(イースター/復活祭)であった昨日は、第二の故郷であるイタリアの友人たちから「よき復活祭を!」「おめでとう!」というような(メリクリ、あけおめ的な)メッセージとタマゴの写真が次々と届いた。

返信用に、ぐいのみをエッグスタンドに見立て、リトアニアのニット作家が編んだ帽子をタマゴにかぶせて写真を撮った。中央が最近の試作品、両サイドはミラノ修行時代の作。ただのタマゴが、わたしをはじめ肌の色が異なる友人とおしゃべりしているように見えるでしょ。小さなヒトコマだけど、なんとも幸せな気持ちになった。

ふと、居場所を失ったエッグスタンドのことを思い出した。

食器棚のなかのうつわ

ところで。子どものころから、食器棚の中をのぞくのが好きだった。鼻を扉の先にちょいと入れると、棚の木材、陶やガラスのうつわの香りが混ざり合ったあの匂いも好きだった。

60年代。東京の祖父母(大正生まれ)の家の食器棚はガラスでなく木の扉だったので、開けてちょうだいと頼んでは、中をじーっと眺めていた。上の引き戸には菓子鉢の中にお煎餅が入っていてね、ぷぅ〜んとお醤油の香りも加ってなんともいい匂いだった。

棚の中で丁寧に重ねられた染付(そめつけ)の豆皿、静かに光る切子(きりこ)風な細いコップが大好きだった。祖母に頼んで、小皿に甘納豆、切子のコップで麦茶を飲ませてもらって満足したあの気持ちをはっきり覚えている。(写真は祖父母からもらったそのグラス)

サイドボードのなかのうつわ

東京のまんなかで生まれ育った両親は、ドーナツ化現象の走りとして東京の河川を渡ったあたりに新居を構えた。おそらく彼らはにぎにぎと時代の流行に乗っかったのだろう。座卓が「ダイニングテーブル」になり、トーストとエッグスタンドに立つゆでたまごと炒り米が混じったソルト&ペッパーが並ぶようになった。

食器棚を「サイドボード」と言うようになり、わたし自身も、おひめさま的な響きある「サイドボード」に空想を広げた。現実、我が家のそれはわたしの空想とは少し違ったけれど、あの日の煎餅の菓子鉢より、光が透けるような磁器のカップ&ソーサー、アンバーカラーのパイレックスのうつわ、小花柄のケーキ皿に夢中になった。小道具である銀色のナイフフォーク、グレープフルーツやイチゴ専用のスプーン、ミルクピッチャーやエッグスタンドをカチャカチャ並べるのも大好きだった。そして、わたしの興味も時代に流れた。

心のなかのうつわ

気がつけばうつわをつくることを生業としていた。

昨今の断捨離カルチャーの中で、納まる場所を追い出されたうつわたち。これからもうつわたちの居場所はどんどん狭くなるだろう。

人間もうつわも儚いもので、永遠ではない。人生の幕を閉じるにあたり、うつわの行く末について相談を受けることがある。既出の江戸切子のように受け継いで使うこともすてきなことだが、わたしのうつわについては、それに限っていない。人生の一コマで想いをぎゅっと盛りつけてもらえれば御の字である。

すてきなデザイン、使いやすい形、たくさんの良きうつわは世の中にあふれている。世の中にうつわを生み出す者として、自分の中の矛盾に悩むこともある。これからのうつわの居場所は、食器棚でもサイドボードでなくていい。「これさえあれば」という納めの思考で選ばれるのではなく、心に納まるようなうつわを生み出したいと思いながら、今日も窯いっぱいのうつわを焼いている。

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