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そして陶芸道という一本道を行く

東日本大震災から10年。
わたしは東京でそれを記憶することに。
同時に、10年目の一本道を見つめています。
正解のないコロナ禍で。


あの道

実家の両親、そして仕事に出ていた家人とも連絡が取れないまま一晩が過ぎ。家人のふるさと福島は大丈夫だろうか。ネットがつながらず安否確認アプリどころではありませんでした。

毎年、なにができるか考える。
毎年、あの日の前後の書いたブログ「こどもたち」を読み返す。



二足のわらじ

展覧会の受注作品を、ドカンとギャラリーに配送した翌日でした。当時は、本業の陶芸道と、もうひとつ別の仕事をしていたので(資金的にはこちらが本業のような感じだった)、あくせくと次の仕事に取り掛かる予定でした。


マーケティング会社で記録ライターの仕事をしており、翌日は、文字起こし記事の納品日でした。皮肉にも、大手広告代理店と、ケータイ電話の災害アプリ開発中で。


いろいろなことが露呈したように思います。
所属していた会社のおかげで、わたしはここまで細く、荒れた陶芸道を歩んでこられたし、今でも所属会社の社長は20代の頃から変わらぬ心のパトロンです。けれど、この納品を機会に、業界の闇という津波にやられたのです。

同時に、不安を理由に、本業に裸一貫で挑んでいない自分も露呈されました。


陶芸道という一本道

揺れ、火災、そして津波。
陶器が粉々になっている映像を、無数に見ました。継ぐどころの数でない。

「陶芸これから難しくなるぞ」と業界内で不安の声が巡り、それならばと、逆光がさす一本道を選択しました。二足目のわらじを脱いで、裸一貫、光り輝く道に手をふり。



あれから10年。
今もたくさんの人の中に残る気持ちがあるでしょう。独立窯を持って21年目。

そしてわたしの一本道は10年目に入ろうとしています。


コッチョリーノ 我妻珠美
2021年3月11日

あとがきコッチョリーノ

(記事内の写真は以下の通り)




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