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いなくなったタニグチ先生の話

高校1年生の時、全然授業が面白くない数学の先生がいた。

淡々と抑揚のない声で教科書通りの説明を繰り返し、特に数学的な理解を深めるようなTipsも無かったので、ほとんど誰も授業を聞いていなかった。

時々、彼が声を荒げて「授業中ですよ。。!」と怒ってみても、声量が無いために響かず、その後に空虚な静けさが待つだけだった。

手応えを全く感じない中でずっと授業を続けることは、先生にとっても計り知れないストレスだったに違いない。

空が真っ白でチラチラと雪が降る日に、下校時間が早まったアナウンスとともに、その数学の先生が学期途中で退職された、ということを知らされた。

どうも、ある生徒からあの先生の授業は聞きたくないから辞めさせて欲しい、という生徒の署名が教員室に届け出があったという。連名で。

皆その先生の授業に退屈していたから、その先生が辞めることを皆喜んでいたけど、何となく引っかかるものがあった。

その先生なりに頑張っていた部分もあったに違いないのだ。雪の降る真っ白な空の下で、彼は最後の日をどうやって過ごしていたんだろうか。

嫌われる勇気の中で、「私には能力がある」ことを意識するべきだ、と書いてあった。それ自体は正しい。自分は人の為に役に立てるという気持ちで常に何かを頑張っていられるなら、それが一番良い。

でも、カルチャーミスマッチだったり、そもそもその仕事が自分に向いていなかったなどで、能力を発揮しても成果が出なかったり、周りの評価が全くついてこないという時だってあるだろう。

得てして、結果を出すためのハードスキルで人を評価しがちだけど、スキル云々以前に、一人一人が社会の中で生きている、ということが最初の前提にある。でも、能力主義に陥ると、それが抜け落ちてしまうんだなって思う。

自分も同じ目にあってきたから分かる。

だから、誰もが、社会の中で誰かの役に立つ力があると思いたいし、ハードスキルだけで見ようとする偏見はちょっと許せないなあと思う。

そういう偏見を持つ人が身近にいる時に冷静になれなくないでいたけど、これまでの経験上そういう物の見方しか選択出来なかった人を、自分の中で切り捨てていいのか、という気持ちが心の奥底にあった。

得てして、そういう人達は、自分に対して冷たく当たってくることが多いのだけど。うけいれられない自分に対する苦しみの方が大きくなっていく。

難しい。

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