ありがちな無神論への誤解

 無神論というのは、「神が存在する or  神が存在しない」という命題に対する、既知の科学的根拠から、可能性、蓋然性を元に推測される個人の、その時点における結論。

だから、「信じる」という言葉を、「神が存在するか、しないか」を論じる時に使うのはおかしい。「信じたい事柄」の話でもなく実際に存在する可能性があるのか、そしてあるならどれくらいの確率か、という確率論なので。

「人は神を信じたほうが幸せになれる」とか、「科学は精神的、道徳的、倫理的、あるいは無数の社会問題を、未だ解決できていない」というのは、前者は個人、個人の感覚として違う話であり、後者は、科学にはまだまだ解明されていないことも多く、未知であったことが解明されたとしても、全ての人間の無数の問題を解決できるわけではないという、それだけの話なのだ。

科学は事実の探求であって、問題を解決するには、様々な事実を解き明かして対策を考えるしかないし、どのように科学がもたらしてくれた事実、発見を使うかなんてのは、完全に別問題である。

これらの指摘は、元々の「神が存在するか YES OR NO」という命題の、何の説明にもなっていない

これは明らかに非科学的思考法なのだが、多くの宗教とは前提として、「信者はその宗教における神信じることが義務づけられる」ため、「神の存在を信じない」無神論者、あるいは無神論は敵であると考えてしまうのも、仕方のないことであるが。

だが、実際のところ、「神は存在するか」という命題の答えなど、少なくとも「科学的思考」がある人にとっては、(そして多くの国家では、教育で科学を重視しているのだから)「蓋然性の問題」としては、答えは殆ど出ていて、圧倒的に「神など存在しない」のは、明白だと私は思っているけど。

少しセンシティブな事柄だと思うが、宗教を語る上で、私がむしろ警戒するのは、「本当に信じてしまって新興宗教にはまる人」ではなく、「別に信じていないが、様々な個人的理由で新興宗教に信者として参加している」、あるいは「神が存在する、しないという科学的命題を、様々な宗教の信者への共感や連帯を示すためだけに避ける」人たちの言説だ。

もちろんお金だけではないが、生きていく上でのメリットを、その新興宗教団体に参加、肯定することで得ているのだから、そのメリットが何であれ「ビジネス信者」だと思っていて、この人たちの多くは、いざその宗教団体の信者が問題を起こした時に、そもそも「神という絶対的存在を信じることを強いる、すべての宗教が内包する問題」については論じず、加担していたのに、自分達も善意の被害者として、あるいは完全な第三者のごとく振る舞うのである。

宗教とは創作であり、神とは、結局のところ個人、あるいは集団が考え作りだした架空の存在であるという事実は、全人類にとって共有されるべきと私は思っていて、その前提を曖昧にして宗教を語る人は、マルチビジネスの末端や、家族や友達が入っているのに止めなかった、「善意の共犯者」と、実質的にほとんど変わらないだろう。





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