宗教にさようなら

安倍元総理が一人の若者によって公前で殺害され、犯罪動機があきらかになり、様々な報道から、統一教会という一つの宗教団体の問題点が指摘されたことで、カルト的な団体を宗教の自由というお題目で放置していくことも、政治家が彼らを利用しようと、つながりをもつことも、負の側面のほうが大きく、危険である。ということは、少しでも世相に関心がある方なら誰でも感じたのではないでしょうか。

 まさか岸田総理がここまで明確に関係を断つというとは思わなかったが、少なくとも日本の内閣総理大臣という立場で公言したことで、日本の政治家は宗教団体として認可されていようがいまいが、カルト的団体と接点を持つべきではないというのは、明確になったと思う。だが、宗教の自由というものは今後も当然保証されるし、統一教会系の信者が今後日本では激減し、力を弱めていったとしても、宗教がもたらす負の問題は放置されたまま残るのではないか? 私は宗教の自由は否定しないし、そもそも人が思うこと、考えることを他人が制限したりはできないのだが、宗教なんて信じる必要がない、宗教を信じたからと言ってプラスになることなど本当はない。それはプラシーボ効果と同じであって、本人が思い込むこと=信じることで、自分の行動が変わるだけの話であって、宗教そのものに価値などない。つまり信じるものはなんでもよかった(信じさえすればいい)ということだと、より多くの人が認識し、広く共有されることが、最終的な解決ではないかと思う。

これは、まさしくすべての宗教にあてはまる。キリスト教だろうがイスラム教だろうがユダヤ教だろうが、ヒンズー教だろうが、仏教であろうが、神道系だろうが同じなのだ。仏教は哲学ですとかいう批判を時たま目にするのだが、実際のところそれなら、宗教団体である必要がないので、宗教の認可も必要ないだろう。宗教として認知させながら実は仏教は特殊で、哲学なんですとかいうのは、結局関係者だけに通用する言い訳で、もっというとそれで生活している人たちの、都合のいい言い草でしかない。

修行して、出家した。はいそれで? っていうのが私の仏教に対する考え方。仏教批判をしようと思ったら(少なくとも現実的に、私達の社会における、仏教関係者の振る舞い、ビジネスの仕組み、についてなら)いくらでもできるが、どうせ、宗派によって違うとか、うちのお寺では、とか言い出すので(はいはい、ビジネスビジネス、ご苦労さま) めんどくさいから、仏教も他の宗教と一緒にして構わない。

よく日本は古代から神の国ですから、とかいう言葉が保守系政治家の口から、無意識にあるいは意識的にもれることがあるのだが、この神の国とかいう、すべてを曖昧にするようなワードでしか国がまとまらないなら、それって、統一教会=国 と信者=日本国民、 政治家等 = 統一教会の幹部連中(ビジネスっ ビジネスっ)の関係でしかなく、彼らがなぜ宗教が好きかというと、宗教的なものでまとまった人は、一つの方向(彼らが望む方向)に誘導するのが簡単だからに他ならない。

実際、私=一人の一般人として思うことは、今後はありとあらゆる宗教の問題点、負の側面は徹底的に論じられるべきだし、宗教だからとか、信仰が関わるとかいう言い訳を許さないで、たとえそれが誰かの妄想とか信仰を否定し、時にはそれを信じる方々の心を傷つけるとしても、理性や知性でもって説明されるべきだろう。

麻薬や覚醒剤、あるいはネットワークビジネスの負の側面と語るのと同じでいいはずが、宗教だから、なにか信者の気持ちを考えると、あまりあげつらいたくないと思うし、カルト的集団ならば余計に、彼らのリアクションを恐れたりするのだが、宗教を特別扱いしすぎるため、余計にカルト的土壌を広げてしまい被害者を増やしてしまう。

様々な宗教に、文化としての有意義な側面とか、歴史的価値とか、哲学的な積み重ねは認めるのだが、(哲学だからといって、価値が上がるようなことは何もないが)

物事を説明できなくなると、宗教的ワードを持ち出して、曖昧かつ狡猾に、結論に導こうとされた時は、あなた、何言ってるの? 大丈夫ですか? と、少なくとも宗教なんて必要ない(自分には)と思っている人は、今後は遠慮なくはっきり言ってあげよう。

もちろん、自分がありとあらゆる宗教に価値を見出さないとしても、建造物を壊したり、その宗教の信徒にとっては大切にしているものを壊したりなんてしないし、たとえば神社に行けば、私は物語として、そこに書かれている神社の歴史や、慣習に従うし、イングランドの大聖堂とかいけば、その雰囲気に圧倒されたりもする。事実、暗黙のサービス料としてお賽銭を払うし、
おみくじなる、何の意味もないものも、その時の同伴者との話題作りのためだけでも、購入したり、手を合わせてお祈りという行動をしたりもするのだが、(いや、実際は何も祈っていないのだが、作法みたいなものだとわりきって、、)

少なくとも宗教法人が存在するとき、お金が常に動くのだから、金の動きを調べて、一サービス業の活動として、一切の優遇をなくすべきだし、信仰は認めるのは当然としても、団体として何らかの活動がある場合、その勧誘の手法、そして団体の理念や教義については、その整合性含め、遠慮なく論じられるべきだと思う。 

そして、これは私がほぼすべての宗教に対して思うことだが、その宗教の創始者とか教祖が神の言葉を聞いたとか、予言がとか、神につかわされたとか、修行の後、真理に気づき悟られたとかいう自己申請的な虚言は、少なくとも、その正当性含め、もっと真面目に論じていいのではないか? 

馬鹿馬鹿しすぎると誰でも思うはずが、なぜかそれはバカバカしいという言葉で片付けられず、普通にまかり通っており、その馬鹿馬鹿しすぎることを大真面目に信じて、その言葉どおりに従おうとする人たちがいるから、(それを学校教育や、社会全体においての人間関係を通じた対話などで解決してこず、無意識に守ってしまうから)、このように信じてしまう人たちは、ハズレにたまたま当たれば、誰でもカルト信者になってしまうという現実を考えると、これは教育の問題だし、社会全体(話を広げると今、世界にいる人類全体)の理性、知性、教育の問題じゃないかと思う。

これは保守だとかリベラルだとか、革新だとか、社会主義か資本主義かとかいう問題ではないのだ。保守にとっては、宗教が大事なのかもしれないが。

もっとより多くの人が、成人になる前に、宗教よさようならと普通に感じる、それが当たり前になる日が早く来てほしい。

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