雨の記憶

【小説】

※4回連載の第3回です。

 マガジン『20年の不在』に収録しています。

 第1回「しなやかな腕」


バーカウンターで"東京組"が再び酒を飲んでいる。"地元組"の友人たちはパーティ終了後に、高原を降りた盆地にある自分たちの街へとチャーターした小型バスで帰って行った。ホテルに残ったのは新郎新婦と、彼らのような遠方からのゲスト数人だ。このバーでもパーティで見かけたふた組の客が、ソファ席で寛ぎながら宴席の名残を楽しんでいる。

3人は真理を挟んで座っている。入口から奥寄り、真理の右手に渡邊が、手前の左手に彼が座っている。真理はドレスからカジュアルな普段着に着替えている。

パーティを終えてバーに戻ってから、話題は《"お嬢"が如何に素敵か》に終始している。特に酔っぱらった渡邊が約束通り真理のすべてを、文字通り、頭の天辺から足の爪の先までを、いちいち細かな解説入りでほめあげた。

その語り口が見事で、渡邊が真理のパーツをほめるごとに、彼と真理のふたりは腹を抱えて笑った。真理は爆笑しながらも「渡邊くんみたいな二枚目にこれだけほめられると、女冥利に尽きるわね」と満足そうにしていた。

ひと仕切り真理をほめちぎると、渡邊は再び酔いが回ったのかそれとも演技なのか、「堤、パス」と言い放ち、例の子どものような笑顔で彼に向かい右手の親指を立て、そしてカウンターに突っ伏した。

真理は彼に正面から向き直り
「それで? 堤くんは、何をほめてくれるのかな?」
と、ようやくほろ酔いになった多少ろれつが回らない口調で訊いた。

「ほめるも何も、渡邊がすべてを語った」
彼は真理の真っ直ぐに向かってくる視線から目をそらせた。

「ちょっと、ほかにあるでしょ?」
真理は彼の肩甲骨あたりを思い切り平手で打ち、彼の視線を取り戻した。

彼は右肩を押さえながら「わかった。わかった」と降参の口調で言い、真理に向き直り姿勢を正した。

「真理、渡邊はずっと真理の外見を中心にほめてきた」
真理は黙って頷いた。

「だから、俺は内面をほめるよ」
真理は今度は頷かず、少しだけ顎を上げ、酔って下がりぎみの瞼をわずかに開いて応えた。

彼は、ゆっくりと語り始めた。


窓の外は雨が降り始めていた。西の空にあった雲は移動し、いまはこの辺り一面を覆っているようだ。雨粒は一定のリズムで建物の屋根や地表を叩いている。

ホテルのバーに、客は彼と真理のふたりしかいない。

客の話し声の途絶えた店内には、邦洋の名曲をボサノバ風にアレンジしたアコースティックギターのBGMが抑えた音量で流れている。よく聴くと演奏者の技量がかなり高いことに気づく。有線放送ではなく、アナログ盤かCDでアルバムごと流しているらしい。楽曲の背後には雨音があり、ときおりバーテンダーが氷の塊をアイスピックで砕く音が響く。

こういう時間が前にもあったな、と彼はぼんやりと思った。

高校の教室、

土曜日の放課後、

降りだした雨、

講堂から聞こえてくるブラスバンド部の演奏・・・。

秋だっただろうか、彼は教室で窓辺の椅子に座り雨を見ていた。いや、正確にいえば雨に濡れた風景を見ていた。

なぜそうしていたのかの記憶はない。まるでそもそもの始まりからそこにいたかのように、そしてそれが永遠に終わらないかのように、世界から置き忘れられてしまったかのように、彼はそこにいた。

そして、ふたつ前の席には真理がいた。真理もまた、世界から置き忘れられてしまい、両手で顔を覆い細い肩をわずかに震わせていた。

そうか、俺は真理が泣きやむのを待っていたのか、と彼は鈍い意識の底で思った。

「そうだ、真理をほめてあげなきゃ」とまた別の意識が虚ろに囁いた。

「真理はクラス委員としてすごくがんばったんだから、だから、ほめてあげなきゃ・・・」

遠退く彼の意識の最後で、ふたつ前の席に座る真理の後ろ姿が揺れた。



目が覚めると彼はベッドに寝ていた。サイドテーブルに置かれた腕時計に手を伸ばし時間を確認すると8時20分だった。彼はベッドから抜け出し、簡易冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しひと口飲み、部屋のなかを見渡した。

昨日着ていたフォーマルスーツやワイシャツやネクタイが、ソファに無造作に掛かっている。昨夜、渡邊と真理と3人でホテルのバーで飲んでいた。しばらくして酔いつぶれた渡邊が先に部屋へ引き上げた。その後、他の客もはけるなか、真理とふたりだけで飲み続けていた。

渡邊から引き継いで真理をほめていた、と彼は記憶を手繰った。でも真理は泣いていて、俺は泣きやむのを待っていた…? そして真理は高校の制服を着ていた…?

彼は頭を振ってミネラルウォーターを大きくひと口飲んだ。

記憶が混乱していた。昨夜のバーでの出来事と高校時代の話が入り交じっていた。そしてその後、いつまでバーにいて、どうやって自分の部屋に帰ってきたのか、彼にはどうしても思い出せなかった。

部屋の電話が鳴った。 受話器を取ると渡邊からだった。

「で、昨日は致したのかい?」靄がかかったままの混乱した頭に、現実的な質問が投げかけられた。

「うむ。記憶がないんだ」

「お前も潰れたのか?」

「どうやらそうらしい。面目ない。ただ、やってはいないと思う」

渡邊は一拍置いて「そうか、やってないか」と多少安堵の混じった声で言った。

「とにかく1階のカフェに行って、熱いコーヒーを飲もう」

電話を終えた後も彼は、しばらく記憶の再生を試みたが、どうしても泣いている真理を見守っている場面で映像はブラックアウトしている。彼は着替えてからミネラルウォーターを飲み干し、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。

真理はあの後どうしたのだろう。彼女も相当酔っていたはずだ。

彼は真理の携帯番号をコールした。しかし呼び出し音は7回鳴って留守番電話に切り替わった。

ディスプレイに表示されている真理の名前を彼は見つめた。


エントランスの奥にあるカフェテリアへ行くと、渡邊がコーヒーを飲みながら新聞を広げていた。

ソファーに座ると、「そうか、致さなかったか」と彼に目を向けずに渡邊は言った。

彼は、渡邊が退席した後のバーでの会話のやり取りをかいつまんで話した。

昨夜のパーティーでの真理の立ち振舞い、7~8人の同級生が会話に入るなかでのバランスの取れたトークと機転の利いた話題の切り替え、その言動から表情の作り方に到るまですべてが完璧だったこと。そして成熟した大人の女としての魅力に溢れていたこと。また、そこから遡って、高校時代にその片鱗が十分にあったこと。公平であること、正しくあろうとすること、寛大であること、優しくあること。

「そうした真理の持つ美徳と魅力について、具体例を挙げながらひとつひとつほめていったよ。真理ははじめのうちは笑ったり否定したりしながら会話を楽しんでいたけど、徐々に頷くでもなく黙りこんで、表情をなくしていった。そしてときおり視線を外して窓の外をぼんやり見ていた。雨が降ってきたんだ。真理は途中からほめられることを喜んではいなかった。ふたりともアルコールだけが進んで、とにかく俺はバカみたいに一方的に喋り続け、真理は酔って焦点を外しながらも無表情に話を聞いていた。それは会話ではなかった。俺の話が途切れるたびに雨音が聴こえた。そして記憶が薄れていくなかで、真理が泣いていたような気がするんだ。静かに声も出さずに。だけど、実はそれが現実なのか昔の記憶なのか、わからないんだ。昔話をし過ぎたのかもしれないし、または…」

「20年前に、お前は"お嬢"が泣いているところを見たことがあるのか?」渡邊は、彼の話を遮って訊いた。

彼は運ばれてきたコーヒーに初めて口をつけた。

「昨夜、初めてその場面を思い出した。いや思い出したというよりも封印が解けて出現したというか、とにかく前後の脈略もなく突然現れた。まるで夢の断片のようでもあり、ただ臨場感だけはあって…。そして、その後の昨夜の記憶がまったくない」

渡邊は考え深そうに眉間に皺を寄せて、ポケットのなかの煙草の箱を取り出し1本引き抜いて口にくわえた後、禁煙エリアであることを思い出し煙草を箱に戻した。

「そうか、不可思議な局面にあったわけだな。真理はどう思っているんだろう」

「なあナベ、真理はいまどこにいる? 部屋かな? ここに来る前、携帯に電話したが出なかった」

「俺も少し前にホテルの内線と携帯にかけたが出なかった。シャワーでも浴びていたんじゃないか」

渡邊は、おもむろに携帯電話を操作し始め、耳に当ててしばらく待った。
「だめだ、やはり出ない」

渡邊と彼はしばらく見つめあい、どちらからともなく、フロントに向かった。

真理は朝早くにチェックアウトを済ませていた。フロントマンは封筒を出して言った。

「お客様は渡邊様と堤様でしょうか。橘様から、おふたりのどちらかチェックアウトが早い方へ、こちらのご伝言をお渡しするよう承っております」

渡邊はホテルの定型封筒を受け取り彼を見た。

「まずは、煙草を吸いたくないか?」


****************

親愛なる友へ

渡邊くん、堤くん、昨夜は本当にありがとう。楽しかったし、嬉しかった。そして、いままでの人生でこれだけ満たされた時間はなかったかな。ちょっと大袈裟に思うかもしれないけど、偽らざる正直な気持ちです。

たぶん、私はずっと優等生でいて、表面的なところでは人から好かれることも多くて、だけど、いつでも人の目を気にして生きてきた。どの言葉が真実でどの言葉が嘘かをいつでも慎重に見極めながら生きてきた。

なぜそうなったのかはわからないけど、子どもの頃から人の悪意みたいなものが見えて、見えるからそれが怖くて、心のなかではいつも怯えながら、そうした感情を避けるようにしてきたんだ。

だけど、大人になるにつれて、だんだんそれを避けられない場面が増えてきて、もちろん、いまは受け流すことを覚えたのだけれど、根っ子のところではやはり変わらない、変わらなかったんだな、と改めて昨夜、ふたりとお酒を飲んでいて気づきました。

それに気づいたのは、ふたりの優しさに癒されていく過程のなかでした。ほかの誰でもない、17~18歳の不恰好な私を知っているふたりが、まっすぐな言葉で何のてらいもなく100パーセントで私にぶつかってきて…まあ、多少ほめすぎだったけどね(笑)。

だから昨夜のこと、本当に感謝しています。心からありがとう。17歳の私からもお礼を言います。

ところで、昨夜はタイミングじゃなかったけれど、そのうち、おふたりのどちらか、または両方と「致す」ことができればいいね!

橘真理

****************


「おい、堤、俺たちの目論見はばれていたぞ!」渡邊はくわえ煙草で、手紙から目をあげて彼を見た。

「どうやらそのようだ、ばればれだな。やはり俺たちは真理に完敗している」ふたりはエントランスの車寄せの隅にある喫煙所にいた。

「でも、真理は満足したようだから良かったじゃないか、お前の心配は杞憂だったな」

「ああ、そのようだ…」彼は深く煙草の煙りを吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。

「そうなると、次の機会にどちらが"お嬢"と致すかが問題だな。今度は降りないぜ」渡邊は少年のような笑顔を見せて右の拳を彼の胸元に突きだした。

昨夜の雨はあがり、ふたりの頭上には紺碧の空が広がっている。


(続く)


第4回「20年の不在」


tamito

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