20年の不在

【小説】

※4回連載の第4回(完結)です。

 マガジン『20年の不在』に収録しています。

 第1回「しなやかな腕」


国道18号線は御代田から混雑しはじめた。彼は白糸経由でのドライブルートを諦め、中軽井沢駅前を左折し、鬼押しハイウェイへの最短コースをとった。

3連休中日の行楽地は予想通りの交通量だ。途中、湘南ナンバーのBMWと和泉ナンバーのアウディが接触事故を起こし、パトカー到着前の険悪なムードが周囲の注目を集めていた。サンデードライバーの手際の悪さや、慣れない道に交通量の多さなど、休日の行楽地、特に山道ではつまらないミスによる事故が多発する。

星野温泉を過ぎてしばらくすると道は一気に標高を稼ぐため、急勾配、急カーブが連続する。彼は対向車のカーブの膨らみに細心の注意を払いながら、気持ち半拍分早いタイミングでギアを切り替え、コンバーチブル・クーペを操った。

真理は今朝早く元気にホテルを発ったようだ。だが彼は昨夜のバーでの出来事が、そして真理の様子が気にかかっていた。ふたりとも相当酔っていたことは確かだが、あのときの何とも言いようのない不可思議な空気を真理も感じていたのだろうか。

真理の感情はどう在ったのだろう。あの物言わぬ無表情からは何も読み取ることができなかった。そしてあの涙の理由は何だったのだろう。そもそも真理は現実に泣いていたのだろうか。彼は釈然としない思いで車を走らせた。

鬼押しハイウェイに入ると、左手に悠然と浅間山がそびえる。オートバイのツーリング集団が前方に見える。

彼は高校のときに原付に続いて自動二輪の免許を取ろうとしていた。そしてそれを止めたのは友人の死だった。

高校1年の夏休み、一緒に免許を取得してオートバイに乗ろうと約束していたクラスメートが、彼よりひと足先にそれを実現させ、ひとりで高原へ向かい、転倒して死んだ。警察の調べによると、比較的ゆるやかなカーブで対向車がセンターラインを越えて大きく膨らみ、それを避けようとして反対車線の空きスペースに向け友人は体を倒したという。その際に強く頭をぶつけたことが直接の死因となった。対向車は県外から行楽に来たサンデードライバーだった。事故現場では、真新しかったYAMAHA SR400が無惨な姿になっていた。

彼は直接事故を見たわけではないが、その一部始終がいまでも脳裏に浮かぶことがある。その再現フィルムの最後にSR400の姿がクローズアップされて映る。

前方を走るツーリング集団が反対車線側の未舗装の休憩スペースに右折して入って行った。10数台が土埃をあげて通りすぎると、舞いあがった埃の向こうから1台のオートバイがこちらに向かってくるのが見えた。

距離が縮まるにつれ、それがSR400であることが判った。彼は直感的に「昨日の少年だ」と思った。

すれ違う数メートル出前で目が合った。少年は左手でピースサインを作り、その手を高々とあげた。その瞬間、オートバイはバランスを崩し、ぐらりと揺れた。

すれ違ったSRをルームミラーで追うと、すでに態勢を持ち直している。彼はほっと胸を撫で下ろした。そのまま遠ざかる後ろ姿を見送ると、少年はしばらく左手をあげ続け、やがてハンドルに手を戻し、カーブの先へ消えて行った。



泣くつもりなどなかった。

子どもの頃から人前で涙を流すことだけはすまいと心に決めていた。

しかし今日、議事を進行する自分に対する明らかな敵意が原因で、クラスメイト全員に迷惑をかけた。自分の能力が足りないことが悔しくて、ホームルーム終了と同時に涙がこぼれた。すぐに教壇を降りて廊下に出たが、何人かの級友には見られたと思う。

真理は誰もいなくなった放課後の教室で窓際の自分の席に座り、両手で顔を覆った。

なぜ、一部の人たちは自分に対して悪意を向けるのだろう。なぜ、そうした種類の人たちがこの世界に存在するのだろう。なぜ、それと対峙できないのだろう。なぜ、無視できないのだろう。なぜ、受け入れられないのだろう。

子どもの頃からそれに遭遇してはダメージを受け続けてきたことを、そしてその理由を、真理は考えた。考えれば考えるほど悲しくなった。そして今日の失態が悔しくて、また、涙がこぼれた。

泣きながら思った。大人になれば もっと強くなれるはずだ。ダメージを受けないだけの心の強さを持てるはずだ。稚拙な悪意など笑ってかわせるはずだ。

窓の外は雨が降りだしていた。遠くでブラスバンド部の演奏が聴こえる。雨粒が地面を叩くリズムとブラスバンドの曲が妙に馴染んでいる。

えっ、と真理は違和感を覚えた。背中に熱を感じる。まるで手を添えられたような温かさが背中にある。だが実際に触れられている感覚はない。誰かが教室に入ってきた気配はなかったし、後ろに人がいる気配もない。

背中の温かさは徐々に範囲を広げていき、真理をすっぽりと包み込んだ。

怖くはない。そこに悪意は感じられなかった。その温かさはむしろ安心させるものだった。真理は少しずつ違和感を拭い去り、それに全身を委ねて行った。

雨音やブラスバンド部の演奏が遠ざかり、世界から音が消えようといていた。音だけじゃない。いままで真理を苦しめてきた悪意が世界から消滅していくように感じられた。真理が本来の真理として生きられる世界がそこにあった。

また、涙がこぼれた。しかしその涙はさきほどまでのものとは異なり、とても温かかった。溢れ出す涙を止めようともせず、真理は泣き続けた。

どれほど泣き続けただろう。涙が止まったとき、温かなそれも消えていた。

真理は思いきって後ろを振り返ってみた。

しかし、そこには誰もいなかった。

放課後の教室には真理ひとりで、雨音とブラスバンドの演奏だけが聴こえていた。



扇状に大きく広がる安曇平の田園風景を風が渡っている。

常念岳を越えて吹き降りる風は涼やかで、日陰に入ると少し肌寒く感じるほどだ。扇状地の北東部にある美術館に併設したカフェで、真理はテラス席に座りアールグレイティーを飲んでいる。

朝早くに高原のホテルを出て、まっすぐに松本にある実家へ行った。午前中から昼にかけて両親とともに過ごし、その後、安曇野に向かった。年に幾度も帰郷することはないが、帰るたびにこの美術館を訪れる。真理にとっては実家よりもやすらぎを感じられる場所だ。

先ほどから昨夜のバーでの出来事を思い返していた。

あんなに肩の力が抜けた自分を意識したのはいつ以来だろう。渡邊くんの話術は素敵だったな、と真理は思い出して微笑んだ。

そして、完全に素の自分になって、今度は堤くんの話を聞いた。堤くんの声は途中から直接頭のなかに入ってきた。私は余計なものを何も纏っていない、生まれたままの子どものようなまっさらな意識で、堤くんの話を精神のすべてで受け入れていた。

不思議な感覚だった。真理はその体験を詳細に思いだそうと試みた。

堤くんは、私の公平さや正しさについて、それが如何に人間の資質として大切かということを、昔の話を掘り起こして、ひとつひとつ語ってくれた。私は何の抵抗もなく、物理的にふたりを隔てている空間も別個に存在しているという事実さえも溶解して、彼の言葉を100パーセントで了解した。

そして、彼は私のなかに入ってきた。何の違和感もなく彼が自分のなかにいた。

私のなかで記憶を探り、つらく、悲しかった17歳の私を、温かな目差しで見守ってくれた。20年以上そこにいなかったはずの堤くんが、記憶のなかに出現して、私を包み込むようにして頑なな気持ちをほぐしてくれた。

悲しい記憶は、温かな記憶に変わった。

また、別の記憶のなかで、私は当時好きだった堤くんのために、レコードからカセットテープへ楽曲をダビングしていた。考えぬいた曲順で繰り返し繰り返しレコード針をターンテーブルに落としていた。単純な作業だけどとても楽しかった。そして、ふと気づくと、その作業を堤くんはずっと笑顔で眺めていた。

恥ずかしかった。真理は首を振った。それはズルい、反則だ、と思った。

今度堤くんに会ったら確かめてみよう、もし、それを覚えていたなら、思いっきり彼の頬を叩こう、そして、思いっきり抱きしめよう。

真理は、早咲きの秋桜が咲く田園風景に向けて、拳を二度突き出した。


(完)


※エピソード「井戸を埋める」


tamito

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