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12年前のノートと、noteの再開と

世の中には2種類の人間がいる。

「使い終わったノートが捨てられる人」と
「使い終わったノートが捨てられない人」だ。

別軸で「ノートを使い切れる人」と「途中で使うのをやめてしまう人」もいる。
僕の場合は「途中で飽きて新しいノートに移行しがちだけど、それも含めて捨てれらない人」になっていて、今や本棚の半分近くが自分の過去のノートというかなり不思議なことになっている。

かつて「ラクガキノート術」という本を出させていただいたこともある僕のノートには、文字や絵やよく分からない何かが溢れかえっていて、日々の仕事の打ち合わせから、ひとり思索を深める過程、かと思ったら買い物メモから時には人生プランまで、自分の混沌っぷりが目に見える形で残っている。

そんな一つ一つの記録の文字や線を目で追っていると、まるでレコードの針と溝のようにその時の気持ちが再生される。この感覚が誰しもにあるのかはわからないけれど、少なくとも僕にとってはとても大切なもので、ノートに手書きというアナログなやり方がやめられない最大の理由だったりする。

先日、会社の引き出しを整理していたら奥の地層のそのまた下あたりから2008−2012年あたりに使っていたノートが発掘された。インタビューなどでも話しているが、入社5年目に望まぬ異動を言い渡され「自分には会社しかないんだ…」と痛感しブログを始めた時期でもある。

もちろん見覚えのあるノートだが開くのは数年ぶり、パラパラとめくってみると意外に仕事のメモやスケジュールがびっしり書かれていた。

自分はまだ何者でもないと痛感した分、まずは置かれた環境で新しい業務に食らいつき成果を出そうとしていたあの頃、間違いなく自分で書いた文字や絵を目で追っているとノートには書かれていないあの頃の焦りや葛藤や希望がふっと湧き上がって体を包んだ。今2020年の状態を何一つ想像はできなかったけど、ノートの中にいる僕が今の僕につながっていることは間違いないなと感じた。

もし今タイムマシンがあって、あの頃の自分に「10年後こんな風になるよ!」と言えるとしても、多分それはしないだろうな、と思う。今も昔も、先が分かった道を行くのはあまり好きではない。だけど今こうして、過去の自分が書いたノートを見て、あの頃の自分に対して「よく残しておいたな」という感謝のような気持ちは湧いている。まあ、これもきっと伝えないけれども。

そして再びノートをパラパラとめくってみる。
今考えていることを、過去の自分が後押ししてくれる感覚がある。
「ああ、こっちの方向でよかったんだな」という自信が湧いてくる。

コネクティングドッツなんて言うけれど、今一度未来に向かって点を打っておいてもいいのかなと思った時、なんとなくブログではなくnoteがいいかもなと思った。
手元のノートほどラフでもない、ブログほどきっちりしなくてもいい、SNSの刹那性よりは、もうちょっとだけまとまった文章の形にして。

そんなわけで、ちょっと、ラクガキみたいな感じで文章を書いてみようと思ったのです。

2020.02.05 タムラカイ

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