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無題 006

扉を開けたら、いきなり甘い香りが押し寄せた。

駅の近くの路地裏にあるそのバーは、夕方静かに開いて明け方まで営業している。
仄暗いお手洗いで、生けてある白百合の色気におされながら手を洗っていた。

いつもの白ワインに加えて、今日はナポリタンを頼んだ。
甘くて、少しだけピリッとした味のウインナーがたっぷり入っている、ここのナポリタンは大好きだ。
でもこれを頼むのは、決まって心が騒いでいるとき。

昨日の出来事を思い出し、一瞬だけわれを忘れる。
飴色に炒められた玉ねぎの匂いが記憶の合間に入り込んできて、私はふたたび咀嚼を始めた。

マスターのBGMの選曲が好きだ。
通勤中、何度もくり返して聴いているのは、だいたいこのお店で知った音楽たちだ。
今流れているピアノトリオはなんというバンドだろう、と思い音楽アプリを開く。Danilo Rea Trioという名前がでてくる。イタリアかどこかの人たちだろうか。
壁にうめこまれた大きなスピーカーから、くっきりしたベースの音色が響いてくる。火曜日、濃紺にしんと冷える23:30。

時間を経るうちに、昨夜のことも、他のさまざまな大小の記憶がならぶ棚の中でなじんでいくのだろう。
だれにもはなせない、はなす必要もない記憶たちは、棚の奥のほうに押し込まれて断片しかみえなくなる。

でも、きっと。
次にナポリタンを食べるとき。この静かなジャズを聴くとき。
甘美な白百合の立ち姿とともに、あの夜明けのすみきった光を思い出すのだろうと思う。

ごちそうさまでした、と小さく言って、私は家路についた。

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