権利の獲得と剥奪

知る限り権利は手に入れたら自分からは手放さないものだと思う。
かねがね疑問に思っているのは参政権という権利のことだ。充分に知識がない、経験がないから子供にはこれがない。
一方で能力は落ち込み、経験という過去すら思い出せない老人にはこれがある。
なぜか長生きしてしまう現代において、かつ戦後の産めや増やせやで量産されたご老人が多数派となっていることは正常な民主政治になりうるのだろうか。
ありもしない栄光を誇張し、ない頭を聳やかし、聞きかじった単語で知識人ぶる無能な群体。これを高齢者というのだ。

いくつもの政治形態を試しながら、今も試しながら、日本は今も試行時代にある。失敗はフランス革命の過程を振り返ればわかるが、血気盛んな若者たちが結果として、革命と名付けられるような変化を生み出している。

生き物は生まれればいつか死ぬのである。成熟した後は腐って土に還るのである。山登りに例えれば、肉体的にも知能的にも未熟だから上を、未来を見ながら歩くのであり、登り切ったら足元に注意しながらスゴスゴと家路に着くのだ。山の高さの違いはあれど、老人は家路に着いた旅人である。頭には眠ること、食べること、癒やされる渇望だけだ。未来への貪欲な希望、燃えるような理想はない。

既得権益というものは中々手放せないのは重々承知だ。自己の無能さを知っても参政権を放棄するものは少なかろう。教育も良くなかった。権利と義務の違いも教えて貰えなかった。哀れである。

アホでも労働力のうちは扱いやすいから良かった。だが今はツケを払うときに来ている。誰でも動かせるように作られた車を動かして、若者を轢き殺しておいてアクセルは踏んでいないと恥ずかしげもなく言ってしまう御方もいたと思う。悍ましい。

切腹は日本の誇る文化である。自らの手で自らを裁く高潔な儀式だ。私は定年=切腹で良いとさえ思うくらいだ。だがそこまでは、まだ必要ない。

結論、定年=参政権の返上が妥当でなかろうか。


激情のままに書き残してみる。

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