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バナナ剥きには最適の日々/円城塔

生き物とは何か?
僕らは生き物に出会ったら、ちゃんと生き物とわかるのか?

道にバナナの皮が落ちていたら、僕らはそれを生き物だってわかるのか?
それが地球外生命体であるかもしれない可能性に思い至ることができるのだろうか?

円城塔の短編集『バナナ剥きには最適の日々』にはそんな問いを誘発する話が満載だ。

地球外生命に出会わない日々。

「宇宙人とかいようがいまいが、どうでも良いのじゃないか」と、ヒト型人工知能を搭載した無人地球生命探査機の「僕」はいう。表題作「バナナ剥きには最適の日々」での1シーン。職場放棄とも言えるこの発言のあとには、こんな大胆な独白が続く。まあ、誰もいない宇宙でひとり、何かを言えば独白にしかなりようがないのだが……。

そこには、宇宙人って一体何かというのが全然わからないという事情がある。何をみつければそれを宇宙人そのものだと、あるいは宇宙人がいる証拠と考えてよろしいのか。

ようは、この地球外生命探査機の「僕」、自分が何を探しているかもわからず、100年もの時間をひとり誰もいない宇宙を、会ってもわからないかもしれない宇宙人を探し回っている。そして、100年飛び回っても宇宙人には出くわしていない(と少なくとも「僕」は思っている)。

果たして、なんでこんなにも地球外生命に出くわさないのか? 本当に宇宙人っているんだろうか?

僕らの暮らす銀河系に存在していて人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数を推定したいなら、ドレイクの方程式がある。
地球外生命と人類の未来/アダム・フランク」の書評noteを書いたときに、その方程式については紹介した。

このドレイクの方程式、7つのパラメータから成るが、前半の3つ、天文学的なパラメータに関しては推測ができている。著者のアダム・フランクが示すのは「僕らの暮らす銀河系」にこだわらず、僕らの知る全宇宙と範囲を広げてみての話だが、なんと、生命の存在が可能となる状態=ゴルディロックスゾーンにある惑星は、100億×1兆個存在すると推測されるのだ。まさに果てしない数字だ。

方程式の後半部分は、「生命の存在が可能となる状態の惑星で、実際に生命が発生する割合」「発生した生命が知的レベルにまで進化する割合」「知的なレベルになった生命体が星間通信を行う割合」と続くのだが、このうち最期の6番目を除いた2つだけとさっきの果てしない数字を掛け合わせれば宇宙人のいる星の数がわかる。
果てしない数字にどれだけ小さな確率をかけたら、僕らはこれだけ宇宙でひとりぼっちでいられるのか?と思う。

それとも探査機の「僕」が言うように「宇宙人って一体何かというのが全然わからないという事情」ゆえだろうか?

会えないあなたは本当に存在するあなたなの?

では、確かに宇宙人はいて、なんとか通信もできたとして、けれど会いに行くのはちょっと無理な場合はどうだろう?

「僕らから見て、彼女の属する宇宙はまるで、設定をどこまでも細かく追いかけて行けるフィクションに見える」と言うのは、「コンサルタス・パス」という短編に登場する主人公。
彼は「僕のことはイシュメイルとでも呼んでもらおう」と、かの名作『白鯨』と同じことをいう。そして、ファクションみたいな宇宙に住む(かもしれない)「彼女」は「クィ」。まあ、『白鯨』でのイシュメイルの相棒クィークェグだろう。そこイシュメイルとクィは「コム」と呼ばれるCOMputationなのか、COMmunicationなのか、わからない方法を用いて遠隔的なやりとりをしている。イシュメイルはそこに実在しないクィの存在を稀薄なものと感じている。

かといって「ここで彼女の存在の稀薄さを羨んだり憐れんだりする必要はない」という。なぜなら「お互い様と言うべきか、彼女たちの方から見れば、僕らの方が存在していないのだから」。

僕にとって彼女がただのデータであるのと同様に、彼女から見た僕はただのデータだ。

それがコンピューテションのデータなのか、コミュニケーションのデータなのかに違いはない。
問題はデータを介してしかつながっていない相手は本当に存在するのか?ということだ。少なくとも、その存在の稀薄さはそう疑わせる。

ここには2つの宇宙があって、間は糸電話で繋がれている。モナドの窓はビットに対して透明なのだ。僕たちはビットでもって相手が人間かどうかを判定するが、正解もまたビット以外では伝達できない。宇宙には裏と表があって、どちらの側も自分の乗っている方が表面だと主張している。

ここで物語にはなんとも厄介な主張をする科学者が登場する。

コンスタンス・ピーターソン。「人間メッセージ説」の提唱者。

が、その人だ。
人間メッセージ説?
そして、その元々の研究領域がまたあれだ。

元は地球外生命探査にかかわる研究者だったが、その後、識閾外生命探査へと転身。

この人はなんて、あの人ではないくせに人のように考える探査機の「僕」に似ているのだろう。
「何をみつければそれを宇宙人そのものだと、あるいは宇宙人がいる証拠と考えてよろしいのか」という問いは、地球外生命探査から識閾外生命探査に向かわせる十分な認識なのだから。

その探査機じみた科学者ピーターソンの説はこうだ。

ピーターソンの説によれば、異星人が今に至るも地球にメッセージを送ってこないのは、単にみかけの問題であるにすぎない。人間が未だにメッセージを受け取っていないのは、人間がメッセージそのものだからだとコンスタンスは主張する。

あらま。イシュメイルも、クィも、互いに相手が単なる情報ではないかと疑ってたわけだが、実はそもそもがメッセージにすぎないというわけだ。

じゃあ、あの探査機の「僕」はいったい何をこれ以上探し続ければいいのだろうか?

ないがなけりゃ……

相手が単なる情報ではないかと疑って、その相手もきっと同じように自分のことをそう思っているだろうと信じてみても、結局、違う宇宙の誰かもきっと何かを信じてはいる。

異星体君もきっと何かを信じてはいる。何かを信じてしまったせいで、別の何かも信じている。そうあるべきだと僕は思う。

と思う「僕」は探査機の「僕」ではなく、「パラダイス行」という別の短編に登場する夏休み中の「僕」だ。
その「僕」が頭の中で想像した「異星体君」。その「ものすごい性質をもつ」「異星体君」とはなかなか話が通じない。「異星体君」は「僕」も僕らも使っている右とか左とかを信じていない。「右と左なんて不器用なものを、君たちは未だに使っているのか」ということも思えないくらい、右も左もわからない。「異星体君」が馬鹿なわけではない。ちんたら地球までやってこれる技術があるのだから、と「僕」は思う。

そして、こんな風に考えるのだ。

そいつが何を信じているかは遂に決してわからない。それでも何かを信じてしまったせいで、他の何かも信じる羽目になっているのだろうと、そんな風には考える。

何もかも信じることはできないし、何も信じないこともできない。
右も左もわからない異星体が存在することは信じることはできなくても、それをまったく信じないこともむずかしい。
宇宙人なんて存在しないというのは簡単だ。でも、存在し「ない」と思えるから、その存在を考えることができる。たとえ、それはビットでしかなかったとしても。

あれがないじゃないかと指摘されては負けなのだ。指摘されて返事に詰まれば、ないがある。僕がこうして何かを考えることができているのも、ないがあるお陰であると考えられる。今、別のことを考えていないおかげで、僕はこうして考えている。ないがなけりゃあ、おちおち何かを考えることさえままならない。

ないということは、本当にないということではない。
ビットとしてしか存在しない、別の宇宙で暮らす彼女は存在していなかったとしても、ないわけではない。

ないがなけりゃおちおち何かを考えることさえままならないのだから。


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