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英雄視しない

週末、岸田劉生を観たこともあって、明治期の知識人のことについて考えてみたくなった。

明治期の知識人たちの現代人とは比べものにならない知への欲望、自己研鑽の徹底について、もうすこしちゃんと知った上で、考えてみたくなったからだ。

それで、いまこそ、そのタイミングと思い、1年くらい前に買っておいた夏目漱石の『文学論』を読みはじめた。

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青年の学生につぐ

すると、「序」にさっそくこんな一文を見つけた。

青年の学生につぐ。春秋に富めるうちは自己が専門の学業において何者をか貢献せんとする前、先づ全般に通ずるの必要ありとし、古今上下数千年の書籍を読破せんと企づる事あり。かくの如くせば白頭に至るも遂に全般に通ずるの期はあるべからず。余の如きものは未だに英文学の全体に通ぜず。今より2、30年の後に至るも依然として通ぜざるべしと思う。

2年間のロンドン留学をしていた漱石が最初の1年間をあらゆる英文学作品を読破しようと試みて、その無謀な試みゆえに最初の1年を棒に振ったという実体験からの若者への忠告である。

「余の如きものは未だに英文学の全体に通」じないといい、それは「今より2、30年の後に至るも依然として通」じないだろうといって、漱石は若い学生に対して、自分と同じような無謀さで自分と同じように時間を浪費しないよう嗜める。
この『文学論』はそもそも東大の文学部での講義録として書かれたものだから、無謀な試みで時間を費やすことを避けるのを、「青年の学生に」忠告するのは理にかなっている。

けれど、こんなことを忠告しなくてはいけないということが、そもそもすごい。

いまの時代であれば、「古今上下数千年の書籍を読破せんと企づる」者なんて絶対にいないと言ってよい。
それを忠告しなくていけない状況というのは、漱石の当時の学生に対する思い違いで、そんな無謀なことを「企づる」のは、ただ漱石その人ただひとりかもしれない。

それでも、この忠告がそれほど馬鹿げたものとは受け取られない雰囲気は当時にはあったのだろう。「まさか、そんな読破なんて無理ですよ」と学生から返ってくるにしても、その無理さ加減の認識が当時といまでは無理の度合いの認識が大きく異なるのではないか。

そんな知に対する許容量の差が、この漱石の一文からだけでも感じられるのだ。

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知に対する貪欲さ

すこし前に「優れた人は、読書家である」というnoteを書いたように、もちろん、現代にも知に貪欲で自身の専門のみならずさまざまな知を貪欲に吸収しようとする人はいる。逆に、過去にだって知識になど目もくれなかった人たちだって大勢いる。

しかし、やはり、明治期の知識人のもつ膨大な知に驚かされることは多い。
パッと思いだすのは、東洋史学者の内藤湖南がそうだし、『百学連環』を著しphilosophyに「哲学」の訳をあてたことで知られる西周、漱石と同じ年の生まれで生態学を日本に導入したとされる南方熊楠などがいる。

西周が百学連環と訳した元の語であるエンサイクロペディアは、いまなら百科事典とも訳される、フランスのディドロやダランベールらが著した"L'Encyclopédie"を代表とする百科全書的な知を指すものだから、そうした知を目指した明治の知識人たちが貪欲なのは無理もない。

『知識の社会史』で著者のピーター・バークが次のように書くように、知はヨーロッパにおいても百科全書派が現れた18世紀を起点に、経済的にも社会的にも地位が向上している。

制度的観点からみると、18世紀はあらゆる点でヨーロッパ知性史の転換期に当たる。第1に、高等教育における大学の実質的支配が問われたのはこの時代である。第2に、研究機関および職業的研究者が出現したのも、そして何よりも「研究」という思想が生まれたのもこの時代であった。第3に、特にフランスの〈知識人〉は以前にもまして、経済的、社会的、政治的改革と深く関わるようになり、つまり「啓蒙」(知識の普及)に手を染めるようになったのである。

研究という思想が生まれ、研究を行う機関や職業的専門家が社会的な地位を確立して、専門的な知識をもつ知識人が認められるようになれば、知に貪欲であろうとする人が増えるのは道理である。

もちろん、当時は、書籍こそが知を代表するメディアであり、インターネットはおろか、テレビもラジオもない時代であったから、知的欲望の対象が書物のなかの知に集中したことも無関係ではない。

けれど、いまの時代でも、インターネットで検索すればあらゆる知識がすぐに手に入れられる環境になったとはいえ、知識を自分自身のなかに膨大にもっている方が有利であることは昔と変わらない。

であるなら、知識に貪欲であろうとする人が多かったように感じられる明治期の知的すごみにはやはり一目をおかざるを得ない。

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英雄視しない

けれど、明治期の知識人たちに一目をおいたからといって、彼らとの距離を必要以上に感じるのは、むしろズルいことだと思う。

彼らにはとてもかなわないと考えて、みずからは知に対して貪欲であろうとすることを早々に諦めてしまうことほど、卑怯で、怠惰なことはない。

彼らはすごいと英雄視することで、自分自身を、そうなろうとする努力から解放しようというのは、どういう魂胆なのかと思う。

別に彼らと同様に知に対して貪欲であらんとすることから僕らを妨げるものなど何もない。あるとしたら、僕ら自身の怠惰さ、自分への甘さ、社会や時代に対する自分の役割への無自覚なのであろう。

だから、過去の知識人たちの知の貪欲さを前にしてすべきは、彼らのすごさにただただ圧倒されることではなく、彼らがどのようにして、どんな知を獲得し、それをどう役立てたのかを知り、自分たち自身が知に貪欲であるための参考にすることではないか。

僕はそんな風に思うから、過去の知の巨人たちについての興味が尽きない。


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