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神の三位一体が人権を生んだ/八木雄二

僕は、どちらかというと海外の作者が書いた本の翻訳本を読む頻度が高い。
特にヨーロッパ系の作者の書いたものを読む機会が多い。

だから、かえって日本人の作者がヨーロッパのことについて書いたものをたまに読むと、違う視点でヨーロッパの特殊性にあらためて気づくことができて、普段と違った感動をおぼえる。

この八木雄二さんの『神の三位一体が人権を生んだ』もまさに、そんな感動を何度もおぼえつつ読んだ。

人として「在る」ということ、他者の「在る」もまた認めるということ、そして、それを認めた上で、自分たち人間がどう生き、どう仕事をするのかということを考えるきっかけを与えてくれたという意味でも読んでよかった。

主題は、人格と三位一体というより、ソクラテスの無知の知

良い本と思えたからこそ、このタイトルはこれで良かったのだろうか?という疑問はある。まあ、中身の面白さを損なうものではないのだけど、このタイトル通りの内容だと思って、手に取らない人がいたら、惜しい。

人として「在る」とはどういうことか、他者の「在る」を認めるとはどういうことか、という観点で「人権」とは何かを問い、その問いをキリスト教における三位一体のペルソナとの関係から読み始めている点で、タイトルも本書の内容に無関係ではない。

けれど、その三位一体のペルソナの話は5章あるうちの最初の1章のみにしか変わらないし、その話のなかでも、本当の主題といえるのは「人権というものが三位一体から生まれた」ということよりも、ヨーロッパ社会に古くからある個と普遍の論争に関するものだと読んだ。
その両者をつなぐ特殊な解として、個でもあり普遍でもあるような三位一体のペルソナ概念が生まれ、それが人権という装置にも使われるようになったというのはあくまで説明用の1つの舞台でしかないように感じた。

それ以上に、本書全体をつらぬく主題は、哲学史において誤解されてきたソクラテスの哲学(知の吟味)の本当の意味を明らかにすることではないだろうか。

そして、その観点からみて、人として在ることを権利として認めることとはどういうことなのか?が問われていると思うし、その点が僕にはとても面白く感じられた。

「無知の知」についての無知について

では、この本の本当のタイトルは何か?
僕が勝手につけるとしたら、『「無知の知」についての無知について』とでもするだろうか?

僕自身、ソクラテスの「無知の知」を、自分が知らないことがあることを知ることで、知ろうとすることが芽生えることくらいのものであると考えていた。
それが大きな誤解であることに、この本を読んで気づかせてもらったが、どうやらそのことは単に僕だけの無知というより、そもそも哲学史的に伝わるソクラテス像に誤解があるようだ。

「ソクラテスは自分の理性を自覚して、それを善美なものにするために、自分の心を気づかい、さまざまなことに対応し」、それと同時に「その気づかいが他者においてもなされるように、他者に対して同じことをするように、懸命に促していた」のだと著者はいう。

この気づかいは、あとでもうすこし詳しく書くが、「知っているものは、知っていると思う」ことと「知らないものは、知らないと思う」ことが大事で、「知っているものを、知らないと思った」り、「知らないものを、知っていると思った」りしないよう、自分の心にも、他人の心にも気を配ることの大切さを指す。

知るということは、だから一般的に知られているとか、一般的な意味で知識化されているかどうかの問題ではなく、個々人が自分の知っていること/知らないことをそれぞれ素直に知っている/知らないと思えるかどうかという問題なのである。そして、各自が自分や他人の知/無知にちゃんと気をつかえるかという問題なのだ。

しかし、このソクラテスの知/無知についての気づかいがその後の哲学からは消えてしまう。

プラトンがイデア論を論じたとき、ソクラテスの「気づき」を語ることばは哲学から失われ、概念認識のみが哲学研究の対象になった。こうして実際的場面で起る「気づき」は、理論ないし観想を第1とする哲学の表舞台から消えたのだ。

僕らがソクラテスや彼の「無知の知」という考えを誤解したのは、まさにそうした理由からなのだ。

知るということと人権と

ソクラテスは、知るということを個人の認識との関係とセットで考えた。

ソクラテスが知っていることは他の誰かも同じように知っていることではないし、その逆も言える。普遍的な知とされるものだって、それを知っている者とそうでない者がいるし、さらに、知っていて知っていると思っているか、知らないのに知っていると思い込んでいるものもある。ソクラテスの「無知の知」について、僕らが知っていると思い込んでいたように。

だから、知識というものは、個々人がそれをどう知っているか、各人がちゃんと知の吟味ができているかという観点で考えなくてはいけないと考えたのがソクラテスである。

ソクラテスが行う個人的接触が個々のものへの「配慮」であり、「気づかい」であることは、引用文の内容から見て明らかだろう。この理性のはたらきは、個別のものであるがゆえに、ソクラテスは「私行のかたちで」実施するほかなかった。つまり誰に対してであろうと、自分の精神に配慮するように、年中、個々人に直接あたって促していたのである。言い換えると、大勢を相手の演説では、このような理性的配慮はできないと考えていたのである。

相手が何を知っていて何を知らないか、と同時に、何を知っていると思っていて、何を知らないと思っているか。それは個々人それぞれにあたってみないとわからない。ソクラテス自身が語ることがわかったかどうかも、個との対話のなかであれば気づけるが、大勢を相手にした演説では気づきようがない。

ここで、この個々人を相手にした気づかいという話が、人権という本書のタイトルにもある概念にもつながっていく。
人権とは個としての相手の人格を気づかいのなかで気づき、認識するという実践があって本来成立するものなのだ。

それゆえ、個人の「個」であるそのペルソナ(人格)の認識は、じつは概念認識によってではなく、その存在にそのつど「気づく」という理性のはたらきによって、はじめて果たされる。つまり実践的場面での気づかいの認識力が、個の認識に関しては必要になる。個別の具体的な個人の認識は、その現実の個人の存在にそのつど「気づく」という認識のほかにないのである。

相手のことを知ること、そして、相手が自分で何を知っているかに気づかせるとともに、そのことを気づいてあげること。そこに相手の人権を認めるという行為は成立する。

人権と知の吟味

人権というものが、そうした相手や相手の知、そして、自分の相手に対する知や自分自身の知と無知に十分な気づかいのうちに成り立つのだとしたら、反対にそうした吟味のない知が危険視される理由がわかる。

異なる民族、異なる文化への敵対心は、相手の民族や文化を知らないがゆえに生じるのではなく、同時に自分たち自身の民族性や文化への盲信(=吟味のなさ、無知の知のなさ)から生じる。

近年多発するテロ事件に基づいて、過激な信仰や極端な信仰がテロを産むといわれることがある。なるほど信仰は、集団のなかで共有されるものだから、あらためて吟味される機会が少ない。

と、著者もそのことを問題視している。
古代や中世において、神が、そして、その後は国家が正しさや正義を保証する機能を果たすものとして存在していた。
しかし、トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスらが行う神の存在証明が実際そうであったように、神の存在は神が存在しているとすでに信じている者の側からは行えても、神の存在を知らない側からは行えない。
それは国家の正当性についても同様である。ようするに、知の吟味がじゅうぶんに行えないのが、神や国家のような存在なのだろう。

正義についての判断は、絶対的に信仰に頼ることも国王に頼ることもできないことが、中世を通じて明らかになった。すなわち、神の存在が哲学によって十全には証明できないことが明らかになることによって、その絶対性は中世においてすでに崩れたと言える。

と、著者が書くのは、まさにこれらの普遍的な存在の正当性が維持しきれなくなったからだといえる。だからこそ、「近代になって国家は一般民衆の意見によってつくられ、国家は民衆頼みで存在することになった」のだ。

しかし、それはそれで新たな問題を生む。民衆頼みの国家は、今度は自分たちの意見の正当性をどう確保するかが問われるようになるからだ。

自分たちの意見によって国家は変わるのだから、現国家は自分たちによってある。つまり、国家の判断は自分たちの判断だ、ということである。正義の判断を他者の判断でまかなうことは、理論的にできない。したがって、自己の知の吟味(哲学)がなければ、正義についての判断は、ひとり一人においても、それにもとづく民衆による国家の正義についても、確信はもてなくなる。

だからこそ、あらためてソクラテス的な意味で哲学すること、知の吟味を行うことが重要になってくる。
いや、そうならねばならないはずだった。

吟味を他人に任せる

しかし、残念ながら、そうはならなかった。

いや、吟味がされなかったわけではない。吟味の範囲を広げすぎて、その作業は細分化せざるを得なくなった。

「哲学は本来、専門性を超えたものでなければならない」が、近代において哲学は主に科学的思考に知を吟味する役目を委ねたために、その吟味は細分化された各学問分野で個別に進められるようになり、専門性は増した。
「専門性をもつ哲学などというものは矛盾なのである」と著者は書くが、科学が哲学にとって変わった現代においては、専門性で固められた科学的な吟味が大量に発生しているがゆえに、概念認識だらけの世の中になっている。そこでは無知の知を問うことはむずかしいし、実際行われることはほとんどなくなっている。

そして、問題はここだ。

専門性をこえたところにあるのはむしろ市民の日常的一般性である。哲学の問いはすべての市民の心に起こる問いであり、市民がそれを忘れているなら、ソクラテスがしたように誰かがあえて問いかけなければならない。だからソクラテスはひとりひとりが「幸福に生きる」ことを一番に問題にした。

そう。専門性がはびこる世界では、個々人が幸福に生きるためには、どうすればよいか?の問いが非常に立てにくいのだ。

ソクラテスは「善美な精神」=「美徳」の理解に努めたのである。そしてその理解にもとづいて人々に精神の善美に配慮するように親切に求めたのである。

善美であるということはどういうことか? 人はどのようにして善美であることができるのか? 人はそもそも善美な存在なのか、そうでないのか?

「その答えをだれもがもたなければならない」と著者はいう。善美について問うことは「だれかに任せていてよいことではないのだ」と。

他人にそれを任せることは、善悪の判断を他者に任せることであり、それは結局は、その人にあらゆることで指導を仰ぐ羽目に陥るからである。
自分で善悪の判断ができないことは自律的自己を失うことであり、ヨーロッパ社会では奴隷に成りさがることである。

この専門性がはびこる社会は、善悪の判断ができない人を大量につくる社会になっていないだろうか。

もとの姿を知らないことについての無知

そのことに関連して、著者はこんなことを書いている。

このごろ思うに、文明社会のさまざまな物言いによって、人の心がもつ「ことば」は「新しく」なる。文明社会はそれを進歩と見るが、じつは「もとの姿」を失っているだけではないか。文明社会の歴史を通じて、心が新しくことばで彩られてしまったことによって、自分たちが本当に生きるべき自然世界の「もとの姿」「本来の姿」を理解することができなくなっているのではないか。

と。

もとの姿に対する無知。
無知であることを知るのはむずかしい。それはいまここの自分たち自身をみていたのでは決して見えない。

自分たちが過去からの伝統を理解して受け継いでいると思っていることと、過去にあったもとの姿を忘れているにもかかわらず、それを受け継いでいると思っていることの違い。後者である限り、無知の知は得ることができない。

「知っているか、知らないか」ではない。「知っていると思うか、知らないと思うか」でもない。そのあいだをつなぐ「まっすぐ」か「まっすぐでない」かが、真理と非真理を分け、正と不正を分ける。

知らないこと自体が問題ではない。知っていると思っていることが問題ではない。知らないことを知っていると思ってしまう「まっすぐでない」状態が問題なのだ。
これだけ知らなくてはいけない範囲を広げすぎてしまった現代社会において、この問題を解決するためにはどうしたらよいのだろうか?

仕事とは

その解決の方法は、実は、ちゃんと仕事をすることなのではないかと僕は、思っている。

この「ちゃんと」仕事をするとは、どういうことかを考える上で、著者が「ソクラテスの哲学原理のポイント」としてあげる次の3つの事柄が重要だ。

まず、1つめのポイント。

知識、つまり知ることが大事である。なぜなら、知らなければ何もできないから。つまり何ごとかをなして善美であるためには、まず知識が必要である。

知ろうとすること、ちゃんと知っているのか、その知を吟味すること。それがないまま、まともな仕事はできない。
自分が何の仕事を何のためにしているか知らない仕事など、仕事と呼べるだろうか。その仕事が他人にどんな影響を与えているかを考えないような倫理観を欠いた仕事は本当にやるべき仕事なのか。自分が行う仕事が「善美」の観点から吟味しない仕事ははたして仕事なのだろうか。
もちろん、善美のためであっても、仕事を行う方法を知らないと仕事にならない。

2つめはこうだ。

どの仕事であれ、よい仕事をするためには、配慮すること、言い換えると、その全体、その部分、おのおのについて、必要なことを見きわめ、気づかうこと、気づくことが大事である。

それが社会のためだとしても、仕事をいっしょに進める人たちへの配慮がなければ、その仕事は善美のためとは言えないだろう。嫌な仕事を押しつけたり、無理な形で仕事をさせたり。
そうした配慮のなさは、人に対してのみ問うべきことではない。その仕事を行うことの環境への影響、資源への影響などに対する配慮も必要だろう。

そして、最後の3つめがこういうものである。

責任をもって仕事をすること、何であれ、誠実にことをなすこと、すなわち、ふるまいが善美であることによって、人は善美であると言われる。

こうしたものへの責任がそもそもあるのか。それが3つめのポイントだ。

だから、著者は、実際に行う場合はこの説明とは順序が逆だとも言っている。

根源的な順序としては第1に心の善美が必要であり、それがあれば、第2に、何についてであれ正しい配慮ができる。正しい配慮があれば、第3に、自分の仕事に必要な知識が何であるかも正しく見つけることができる。そして心が善美であれば、その知識を正しく学ぶことができる。

と。

仕事というものを、もう一度こうした観点からやり直すこと。
それが「もとの姿」を思いだすために必要なことの1つだという気がする。

もちろん、それだけでは足りない。
しかし、それ以外にできることは何だろうか。知らないことは知らないと思うしか、いまのところはない。


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