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共創関係やエコシステムそのものが新たな主体となる

1つ前のnoteで紹介した、ロージ・ブライドッティの『ポストヒューマン』

その記事内でも紹介したとおり、現在の行動に情報化したグローバルな社会環境、人新世という新たな段階に突入している地球環境においては、もはや「人間」という枠組みの有効性が失われ、ポストヒューマンの新たな枠組みにおいて考え、行動することが求められていることを著者のブライドッティは指摘する。

ブライドッティが言うように、僕らはすでに人間ではなくなっていて、「わたしたちは実際にポストヒューマンになっている。あるいはわたしたちはポストヒューマンでしかない」。

人間でなくなるなんてことがあるのか?と考える人もいるかもしれない。
けれど、そもそも僕らは「人間」という概念が単なる歴史的な枠組みであることをしばらくのあいだ忘れていたのだと思う。

歴史的な枠組みとしての人間

僕らは、自分たちを人間であると信じる考えが歴史のある時期に登場したものでしかないことを忘れている

もちろん、それは歴史時代以前の進化による人類の誕生のことではない。
そうではなく、フランス革命あたりでようやく「自由・平等・友愛」といった人権をもったものとして認められたり、その前のルネサンス期にレオナルド・ダ・ヴィンチがローマ時代に活躍した建築家ウィトルウィウスが著した『建築論』のなかの「顎から額、髪の生え際までの長さは身長の1/10で、広げた手の手首から中指の先までも同じ長さである。首、肩から髪の生え際までの長さは身長の1/6で、胸の中心から頭頂までの長さは身長の1/4である……」といった記述を元に「ウィトルウィウス的人体図」を描いたりした時から、人間というシステムは少しずつバージョンアップを重ねながら機能してきたということを忘れている。

フェミニズム研究家でもあるブライドッティはこんなことを書いている。

社会構築主義的アプローチは、所与のもの(自然)と構築されたもの(文化)のあいだにカテゴリー上の区別を措定する。この区別によって、社会分析により鋭く焦点を当てることが可能になり、そして、鍵となるアイデンティティや制度や実践の構築を支える社会的メカニズムを研究批判するための堅固な基礎が与えられるのである。進歩的政治においては、社会構築主義の方法が、社会的な諸差異を脱自然化する試みを支えており、かくして、そうした社会的差異が人為的かつ歴史的に偶発的な構造であることが示される。「ひとは女に生まれるのではない、女になるのだ」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉が、世界を変えるほどの影響力をもったことを考えてみればいい。

社会構築主義的アプローチでみた場合に「ひとは女に生まれるのではない、女になるのだ」ということがわかるように、僕たちは、少し前までもいまも同じようにヒトとして生まれるのだけど、かつてはその後、社会によって「人間」になったのに対して、いまは「ポストヒューマン」になるよう、社会のあり方が大きく変わったのだ。

個人主義や本質主義、男性中心主義やヨーロッパ中心主義、植民地主義だったり、自然と文化、あるいは自然とテクノロジーを異なるものとして扱う姿勢だったり、学問分野の各ディシプリンが個別に存在することが可能だったり、人間と動物やその他の自然を隔てることを当然とする人間中心主義的なことが疑問なく成り立っていた社会においては、「人間」という装置は機能していた。ウィトルウィウス的な形で規範とされた「人間」はそのガイドラインに当てはまらないものを外部に置いた。差異は差別として機能していた。

差異が劣等を意味するかぎり、差異は「他者」の烙印を押された人々に本質主義的なかつ致命的な意味合いを賦与することになる。すなわち、性別化・人種化・自然化された他者のことであり、それらの他者は、使い捨て可能な身体という人間以下の地位に還元される。わたしたちはみな人間である。だが、わたしたちの一部は、ただ他に比べてより死すべき存在なのである。ヨーロッパやその他の地域での他者の歴史は、死をもたらす排除と資格剥奪の歴史であった。

しかし、もはや、こうした差異=差別を生みだす規範的なウィトルウィウス的人体は機能させられない。高度に情報化してリアルタイムにつながりあったグローバルな世界、気候変動をはじめとした様々な環境危機や、新しい種類の生命そのものの危機に晒されてある現在の社会、地球環境においてはこれまでの「人間」という装置はもはや完全に時代遅れのシステムとして廃棄の必要性に迫られている。

ポストヒューマンの倫理とその主体

地球環境という側面では、単に人間間の差異だけが問題なのではない。
人間と動物、人間とあらゆる非-人間との差異も肯定的に受け止める必要があり、もはや人間のみが万物の基準としては考えることはできなくなっている。

地球環境に与える影響が無視できないほど、人口も増え、その活動が環境に与える痕跡も日増しに大きくなり続けている現在においては、人間を他から切り離して考えることはもはやできない。あらゆる行為があらゆるものに地球上の環境に主に負の影響を及ぼし、その影響が結果的に自分たち自身の首を絞め続ける。

批判的ポストヒューマニズムを現代的に設定しなおすにあたって、まったく異なる強力な着想源となっているのが、エコロジーと環境保護である。それらは自己と他者の相互連結の感覚を拡大し、他者として人間以外の他者ないし「地球〔=大地〕」の他者も含めることに依拠している。他者たちと関係をとりもとうとするこの実践は、自己中心的な個人主義を拒否することを必要とし、またそれによって強化される。この実践は、環境における相互連結にもとづいて、自己利益より広い共同体の福利に結びつける新たな方法を生み出すのである。

地球と相互連結した主体としてのポストヒューマン。
「わたしの立場は、複雑性を支持しラディカルなポストヒューマン的主体性を押し進めるもの」だとブライドッティはいい、「古典的な人文主義において正典となった系譜において定義されるような個々の主体の自己利益とはまったく異なる種類のもの」であるポストヒューマン的な新たな倫理においては、「自己中心的な個人主義という障害を排除することによって、自己と他者――非‐人間ないし「地球〔=大地〕」の他者を含む――の拡大された意味での相互連結を提示」し、個人の閉じたなかに主体を置くのではなく、「多数の他者との関係の流れのなかに主体を位置づける」ことの必要性を訴えている。

彼女のこの考えにはとても共感する。
日常的に新しい社会的問題、環境の問題にアプローチしようとすれば、個人や個別の組織、個別の学問や業務の領域に閉じた状態では何もできない。いかに外に開き、外の異なる人たち、組織との関係の流れのなかで、どのように問題解決のための足がかりを築き、解決のための施策を導きだすか?にこそ、資源を投入しなくてはならない。そう、日常的に感じ、行動しているからこそ、彼女の示すポストヒューマン的な倫理や行動原理に共感する。
そこに共感すればこそ、外部との共創関係、外部とのエコシステムのなかでこそ、ポストヒューマンの時代の問題解決は可能になることにも思い当たる。そして、この共創関係やエコシステムこそがポストヒューマンの時代の新たな主体なのである。このあたり、ふだん、自分が仕事で行っていることの意味があらためて理解しなおせる。

ポストヒューマン的主体性の多様なモデル

共創関係やエコシステム自体が、主体となるということは、その組み合わせ次第で主体の形は様々なものが考えられるということだ。そして、どんなモデルに何ができるかは本当のところ、実践してみないとわからない。彼女が何度も「アファーマティヴ」という言葉を使うのもそのためだろう。

実際、ブライドッティも「ポストヒューマン的主体性を再定義するためのもっとアファーマティヴなアプローチ」として、多くのモデルがあり得ると言っている。

たとえば、この章ですでにみた横断的で関係を織りなすノマド的なアッサンブラージュという対抗モデル、あるいは、前章でみた古典的な人文主義主体とは別の選択肢としての拡張された自然‐文化的自己だ。

とした上で、「もっと多くのモデルが考えられるし実現可能である」といっている。
そして、

そのためには、「わたしたち」――人新世の時代に多様な場所をもつポストヒューマン的主体――が何に生成変化できるのかというプロジェクトを、わたしたち皆が体系的に実験すればよいのだ。わたしたち皆の利益になるのは、これらの身体化された非‐人間的主体――かつては人間中心主義的でヒューマニズム的な〈人間〉にとっての「他者たち」として知られていたもの――の位置に、ポスト人間中心主義的で横断的な構造上のつながりが存在するのを認めることである。

としている。どんなモデルが可能であり、ポストヒューマンとして互いに連関した同士である僕たちが何に「生成変化」するかは実践的な実験次第だし、実践なくしてポストヒューマンの社会においてどのような主体もあり得ない。人どうしに限らず、非-人間的な他者も含めて、どのようなものと積極的共生関係を築き、何を成すのかということからはじめて主体は立ち上がってくるのだろう。それは合目的なものというより、関係性そのものの実践的な活動から創発的に結果が生じてくるプロジェクトになる。

このプロジェクトの倫理的な部門は、新しい社会的結合の創造、そしてこれらのテクノ-他者との新しい社会的な連結のありかたにかかわる。技術に媒介された有機体の自然‐文化連続体のなかではどのような種類の紐帯が確立されうるのだろうか、そしてそうした紐帯はどのようにして維持可能なのだろうか。親族関係と倫理的な説明責任の両方を再定義する必要がある。そうすることで、情動性と応答責任の結びつきを、非擬人主義的で有機的な他者たちのためだけでなく、技術に媒介され、新しく特許化されているが、わたしたちと地球を共有している生き物たちのためにもなるように考えなおす必要があるのだ。

「ポストヒューマンになるということは、人間たちに無関心になるとか、脱人間化されるとかいったことではない」とブライドッティはいっている。

そう、人間の否定とか、人間であることを忘れるとかいうことがポストヒューマン的な倫理が必要な理由ではない。
人間であることを元にした旧来の倫理のあり方、主義主張といったものを、あらためて今の時代の社会に合わせた新しい社会システムとして再創造するために必要だからこそ、いま、ポストヒューマンについて考え、実践的な活動を進めていく必要があるのだと感じる。

「ポストヒューマンになることは、むしろ倫理的な諸価値を、領土的ないし環境的な相互連結を含む広い意味での共同体の福利へと、新たに結びつけなおすことを含意する」ことなのだ。

こうした実践をどんどん進めていくこと。そういう風な見方で見つめなおしてみると、自分がここ最近進めようとしていたことにも新たな意味を感じられるようになる。
積極的共生関係を生みだしていくことで、いまの時代が必要とする社会的な福利が創造できるようなカタチをつくっていきたい。


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