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集合体

集合体は、機械のようなものではない。それを構成する要素は、機械の部品のようには、集合体を構成しない。集合体を構成する要素は、より自由であり、自身を含む集合体から影響は受けつつも、集合体が目指すのとは異なる動きをすることもできる。

マヌエル・デランダの『社会の新たな哲学』は、社会におけるさまざまな存在を物質的な過程をともなう実在として扱う立場をとる。デランダ自身はそれを「実在論的な社会存在論」と呼んでいる。

社会における実在の存在として、本書でデランダが扱う主要なものは、集合体である。
デランダは、それを「歴史的な固有性を創出し安定させる過程としての集合体(assemblage)にかんする理論は、20世紀の終わり間際の数10年の時期に、哲学者ジル・ドゥルーズがつくりだしたものである」という風に、ドゥルーズを起点として考えている。

ドゥルーズの理論は、「異種混淆的な部分から構成される多種多様な全体へと適用されるべく意図されて」おり、「原子や分子から、生物学的な組織、種、生態的なシステムにまでおよぶ実体は、集合体とみなされ」、同時に「歴史的な過程の産物である実体とみなされる」と指摘している。

このことはもちろん、「歴史的なもの」という用語が、ただ人間の歴史だけでなく、宇宙や進化の歴史をも含むものとして使われるということを意味している。集合体の理論はまた、社会的な実体にも適用されるかもしれないが、社会が自然と文化の境界にまたがるという事実こそが、この理論が実在論的なものであることを証明する。

デランダの集合体は実在の存在で、彼はそれをオブジェクトとして扱う。ゆえに、デランダの思想は「新しい唯物論」のひとつと言われている。

このデランダの唯物論を僕が面白いと思うのは、集合体を上にあるような「歴史的な」産物であり、その過程あるものとして扱うところだ。

組織を集合体と捉えることは、構成要素である器官が互いに緊密に統合されているのにもかかわらず、器官のあいだの関係性が論理的に必然的でなく、偶然的に定まりうるだけのものであることを意味している。すなわち、密接な共進化の歴史的な帰結である、ということだ。

と、デランダは言っている。
だから、最初に書いたように、集合体の構成要素は決して機械の部品のように、組織において、ひとつの役割を果たすものとして、他の構成要素とのあいだにシステム的な関係性を必ずしももつものではない。
もちろん、ときには「偶然的に」そのようなシステマティックな関係性が生じるからこそ、集合体は組織的な機能も果たす。だが、それは決してデザイナーが設計したような形でつくられたものとは限らない。会社組織のような集合体はある程度デザインされているが、インターネットなどを介してつながったコミュニティなどにはほとんどデザインはないだろう。

それゆえ、集合体はいわゆる機械のように線的な因果関係に基づくシンプルな構成をしていないし、その構成はスタティックではなく、つねに「過程」としてある。

集合体の理論では、集合体は他の集合体の構成部分(非線形的で触媒的な因果性の背後にある内的な組織へと帰着する)となることが可能であり、集合体はつねに、個体群を生じさせていく反復的な過程の産物であるが、この理論は、因果的な産出性のこうした複雑な形態を提示することが可能である。

集合体は常に反復的な過程のなかで、その構成要素である個体群を生じさせていく。コミュニティがその活動をつうじてメンバーを増やしたり減らしたりしつつ、集合体としての同一性を維持するようにである。
そうであるがゆえに「集合体の理論は、隙間ない網の目という想像物を使用することへの誘惑を断ち切る」とデランダはいう。

この点が部品のような関係で隙間なく連なる機械のモデルと、集合体という実在が異なるところだ。
そして、この機械との違いが、従来の組織論とは異なる集合体のあり方を考えるための土台を与えてくれる。
その意味において、僕はいまデランダのこの本を興味深く読んでいる(なかなかむずかしくて普段より読書スピードが遅くなりがちだけど)。

集合体という発想で、この世界の存在をとらえなおすことで、何がいま起こっていて、これから起こるのかが見えやすくなるはずだと考えている。

#社会学 #集合体 #組織 #機械 #哲学 #エッセイ #コラム


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