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コンフォートゾーンの外へ

昨日、社内で自社サービスのリニューアルの方向性を決めるワークにアドバイザー的に参加したが、なかなか面白かった。

僕的には普段クライアントとやってるワークを、僕自身があまり関わっていない自社サービスを対象にやる形だったので、社内でやる気楽さとやることはクライアントとやる場合と同じ真剣さが必要になるという、なんかちょうどいい感じでリラックスとストレスがあったのが良かった。

たぶん、クライアントともそういう雰囲気でできるよう、リラックス感を作れるチームビルディングが必要なんだなとあらためて思った。
まあ、普段からそういうチームビルディングこそが大事だと思ってやってるので、あらためてということなんだけど。

ステークホルダーマップとカスタマージャーニーマップを描きながら、リニューアルの方向性を探る

やったのは、最近にサービスの現状とリニューアルで向かいたい方向性などを聞いたあと、サービスのステークホルダーになりそうな人の抽出とそれぞれの役割とニーズ、あるいは互いの関係性(可能性も含めて)などを明らかにするため、ステークホルダーマップを描くイメージで議論したあと、その中のキーとなりそうなプレイヤーのカスタマージャーニーを描いてみることで、サービスリニューアルのポイントがどの辺りにありそうかを考えられるようにするといったあたりまで。
誰がキーとなるプレイヤーかを明確にできたことと、顧客の体験フローから考えるとサービスとしてはこのタッチポイントと行動の改善が主となるが、いま扱えるリソースから考えるとその部分のリニューアルは段階的に価値提供の仕方を変える必要がありそうだというロードマップにつながりそうなインサイトも見つかったりして、良かったのではないかと思う。

4時間くらいのワークを僕含めて3人でやったのだけど、それなりに方向性が見える議論にはなったのではないかと思う。

先に書いたとおりでこのワークは僕にとっては、慣れた作業を、慣れたメンバーとやっていたということもあり、快適で楽しむことができた。
じゃあ、そこから僕自身が得るものがあったかというと、いっしょにやったメンバーと意味あることをやれたという意味では得るものはあったけど、僕自身のチャレンジという意味ではたぶんあまりないのだろうと思う。

自分の可能性を広げるという意味では、いかに自分が快適で楽にいられる領域を意識的に避けるようにできるか?ということはかなり重要な観点だと思っている
仕事やそのタスクを選ぶとき、チャレンジがある方を選ぶか、無難にできるだろうと思える方を選択するかでは大きな違いがある。後者ばかりを常に選んでしまう人は自ら可能性を広げるチャンスを放棄してしまっているということなのだから。
そして、それでは、いつまで経ってもやれることは増えないし、やりたいことも増えない。それはつまらない。そんな人ばかりだと残念だ。

コンフォートゾーンの内と外

ところで、サンダー・L・ギルマンの『健康と病 ― 差異のイメージ』を読みはじめた。医学とイメージの関係を探る文化史的な著作だ。

この手の文化史的な著作を読むことは、僕にとってはある意味、ホームグラウンド的なもので、慣れ親しんだ場所だといえる。
もちろん、知らないことはたくさんあるから読むのだけど、文化史的な考察の枠組みのようなものには慣れ親しんでいるので、個々の内容はそれぞれ新たに触れるものであっても、そこで何がどう問題視され、考察されていくかというあたりは著者それぞれによって当然異なるとはいえ、完全に新たなものに出会うという未知の感覚はもたない。

だから、さっきの昨日のワークの話と同じで比較的コンフォートゾーンの中での読書にはなる。まあ、本の方が振れ幅が広いので快適さは昨日のワークの方が圧倒的に上ではあるけど。

そんな僕がこのnoteでも紹介していたとおり、昨年の10月あたりからこの手の本を読むのを絶っていた。
思弁的実在論やオブジェクト志向存在論などを中心に近年の哲学の著作を連続して読んでみたり、それとも関連性のある新しい人類学などにも手をつけつつ、最近は「人新世」をひとつのキーワードとして、エコロジー的な観点をもつ一般向け科学書なども読み重ねた。

最近の哲学に関する本などは最初読み慣れないので苦労した。けれど、同時にやはり発見も多くあり、数冊続けて読み進めた頃にはそれまでなかった、いろんな視点をもらえた。
そこからブリュノ・ラトゥールの科学人類学的なアプローチにも影響を受けた、ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』を橋渡し役として、人体と微生物の共生関係を探った一冊他生物との関係性の中で意識を生んだ生物の進化にも言及したタコの本、そして地球外生物を探る中でみえた宇宙における高度な文明の持続可能性を問題視する著作や、自然界おける調節のルールの存在から人新世におけるキーストン種としての人類の問題を提起する一冊などを読み進めてきたのは、ご承知のとおり。
それはある意味、ホームグラウンドを離れての旅のようなものだったように思う。

意図的に外に出る

そんなこんなで、ビジター的なフィールドを5ヶ月ほどまわった後の久しぶりのホームグラウンドなのだが、ホームだと思って読みはじめた『健康と病』がかつて、そうした文化史的な著作を読んでいた頃とは明らかに違う感覚がいまあるのにちょっと戸惑っているのが正直なところだ。
ようするに、ビジター領域の本を読み込むことで、何かしら得るものがあり、僕の見方が変わったということなのだと思う。

例えば、以下のような精神分析の誕生の起点ともいえる、イメージと医学の関連付けも、アランナ・コリンの『あなたの体は9割が細菌』を読み終えたあとの今ではかつての捉え方とすこし違ったものになる。ちなみに文中の「ジャン=マルタン・シャルコー」はフロイトの師であるという意味で、精神分析の誕生に大いに関係があるのだ。

フランスで最初にこの精神医学という新医学を実践した人たちが同時に最初の大衆的な精神医学史家でもあった。彼らは彼らの新しい科学のために、当時の文化史の仕方に根ざしながら、「リアルな」科学的医学という枠組みをつくってくれる視覚イメージの威力というものにも根ざした系譜学をつくりだす必要があった。この伝統の最重要人物は、疑いもなくパリ大学最初の精神医学科教授だったジャン=マルタン・シャルコーであろうが、視覚イメージはこの人物にとって格別重要な働きをした。しかしさらにずっと重要なのは、パリの精神医学という新「医学」の認識論と大衆的な精神病史との繋がりである。19世紀精神医学が用いた視覚的なカテゴリーや疾病分類を証明してくれるものが、ハイ・アートの視覚的類似物の中に見つけられた。こうした「歴史的」素材は写真、そしてのちにはフィルムというイメージ複製の新しい科学的方法によってとらえられ、使われていった。

医学などを含む生物学がある時期から、観察をメインにしたものから統計的に数字を扱うものに移っていったことで、問題の要因を異なる方法で探れるようになったことを、最近読んできた本で知ったので、イメージの問題がまた異なるものになっているのを理解した上で、この引用文を眺められるようになっている。
いったん違う領域に出てみたことで、それまでホームグラウンドだと思っていた領域、コンフォートゾーンだと思っていた領域も再び、新鮮な学びのある領域へと変わる。見方が変われば同じ対象も別物になる。

その点でも、コンフォートゾーンの外に出ることは大事だと、今朝感じたので、これを書こうと思ったのだ。

好奇心の感度を磨いておく

コンフォートゾーンの外に出るという観点では、『セレンゲティ・ルール』にあるこんな記述がまさに、慣れ親しんだ領域の外に意識的に出ることの大事さを教えてくれているように思う。

偉大な科学者たることを示す徴候の1つが、自らの好奇心の赴くままにどこにでも出かけていく勇気であるとするなら(キャノン、エルトン、モノーはその好例である)、キーズこそ彼らを代表する人物と言えよう。

ここで「キーズこそ」と紹介されている人物は、狭心症や心筋梗塞なの心臓病発症の主要因が血液中のコレステロールだということを、はじめて実証したアメリカの生理学者のアンセル・キーズです。キーズは、飢餓に襲われたヨーロッパで心臓病による死者が減っていることから、1958年から開始した12000人以上の被験者を大賞にした7カ国研究を経て、1960年代の初頭にコレステロールと心臓病の関係を実証している。

そのキーズの人生がまさに、コンフォートゾーンの外に意識的に出るということの重要性を指し示しているように思った。
こんなキーズの人生の遍歴は感じだ。

カリフォルニア州で神童と呼ばれて育ったキーズは、15歳で高校を去り、アリゾナ州の洞窟で肥料になるコウモリの糞をシャベルですくったり、コロラド州の金鉱で坑夫に爆薬を届ける爆薬の運び屋として働いたりしている。高校に戻って卒業したあと、大学では化学を専攻するが、やがて失望して大学を去り、中国行きの遠洋定期船で給油係として働く。「アルコールがメインの」食生活のなかを生き延び、大学に戻って経済学の学位を取得すると、たったの6ヶ月で生物学の学位を手にしている。次にカリフォルニア州のラホヤのスクリップス研究所に行って海洋学と生物学の博士号を取り、さらにはケンブリッジ大学で生理学の博士号を取得する。その後、ハーバード大学の疲労研究所に加わり、チリに派遣するIHAEを組織したのである。

もちろん、キーズはコンフォートゾーンの外に行かなくては、と思って、様々な領域を横断していったわけではないだろう。むしろ、好奇心に従ってチャレンジをしようとすれば、自分がそのときにいた場所にこだわる必要がないということなのだろう。

だから、本質的には、自身の好奇心に忠実になれるようにすることや、そもそも好奇心をちゃんと持てるように自分の意識を鍛えておくということが大事なのだと思う。それがあった上で、ちゃんとチャレンジできるよう、こわがったりめんどくさがったりせずにコンフォートゾーンの外に自分自身を誘うことができるかということだろう。

そのためにも、ちゃんと自分自身の好奇心のアンテナを常に敏感にしておけるよう、それ自体を磨き鍛えておかないといけないのだと思う。


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