見出し画像

ボール紙の仮面の背後から

わかるためのたった1つの方法。
それは、わかるまでちゃんと、わかろうとすることをあきらめずに、自分でわかるための思考作業を続けることだと思う。

自分自身でわかるようになるしかない。
このシンプルな真実を忘れずに、わかるための思考努力を放棄せずにいられるかということでしかない。

何か外から答えのようなものを持ってきて、それでなんとなくわかった気になることばかり続けていればいるほど、わかる方法から遠ざかるだろう。

わかるための自分自身での思考努力の方法とは結局、

「情報を集める」
「集めた情報を整理する」
「整理を通して見つけたことの組み合わせから、仮説を組み立てる」

を段階的に何度も繰り返す作業でしかない。
自分でわかる方法が身についていない大抵の人は、集めるだけ集めて整理しない。集めた情報の量がに溺れてよけいに混乱したりする。
だが、整理という作業を通さずに「わかる」という瞬間はやってこない。

前回のnote「鯨の語源」で紹介した絶賛読み途中の『白鯨』にこんな箇所がある(メルヴィルのこの作品自体、執拗にわかるということにこだわった作品だ。これを読むだけでも「わかる」とはどういうことかの感触がつかめるはず)。エイハブが一等航海士のスターバックにいうセリフだ。

もういちど言っておくが、スターバック--もうすこし深いところを見るのだな。あらゆる目に見えるものは、いいか、ボール紙の仮面にすぎん。だが、個々のできごとには--生きた人間がしでかす、のっぴきならぬ行為には--そこにおいてはだな、何だかよくわからんが、それでもなお筋のとおった何かが、筋のとおらぬ仮面の背後からぬうっと出てきて、その目鼻立ちのととのった正体を見せつけるのだ。

整理しない人は、この「ボール紙の仮面」だけをひたすら眺めているに過ぎない。それは「筋のとおらぬ仮面」だ。
わかるためには、そこから「筋の通った何か」を引きだす必要がある。

集めた情報を整理するのはこの「筋」を見つける作業である。
そのためには「何故」という視点から繰り返し、集めた情報を整理してみないといけない。ちゃんと自分なりにロジックをもって「何故」を問う。ロジカルな組み立ての視点はここでも必要だ。
「何故」という問いの答えから「筋」は見つかる。情報を集めるのは、この筋を見いだすためであって集めるだけでは何の意味もない。

「もうすこし深いところを見るのだ」

そして、情報をある程度集めれば「何故」と思うところは1つじゃないだろう。また、1つ見つけた「筋」からも新たな「何故」が生じるだろう。そこにある「何故」にちゃんとこだわり続けることだ。「何故」と思うことそのものがわかろうとしている姿勢のあらわれなわけだから、それに従わずに何かをわかれるわけがない。

そういう「何故」という視点からの情報の整理の作業を繰り返せば、複数の「筋」が見つかるはずだ。
反対からいえば「情報を整理する」というのは、この「何故」という視点を集めた情報に対してどれだけ投げかけられるかということになる。つまり、ちゃんと集めた情報に対して、自分なりの疑問、問いを持てるか?である。問いがないのに、わかるはずはない。

だから、この作業を通じて見つけた「筋」は、小さな「わかった」である。わかるための作業は、この見つけた複数の「わかった」同士を組み合わせながら、大きな筋を組み立てる作業に他ならない。この大きな筋を組み立てることで、自分がわかろうとしていたことに1つの仮説が立てられる。

組み立てる作業をしていく間には足りないパーツがあるのに気づくこともある。そうしたら、追加の情報収集と整理をして不足分を補う作業をしてもいいし、とりあえず、どこが足りないかを理解した上でそこは保留にして組み立てられるところを組み立ててもいい。

いずれにせよ、小さな「筋」から大きな「筋」を組み立ててみないと、自分で何かをわかることにはならない。
当たり前だけど、この組み立ての際に既存のなにかの形に当てはめようとしたら本末転倒だ。新しく何かをわかろうとしてるのに、すでにわかっている既存のもの何かに当てはめようとするなんて、ここまでの苦労を無駄にするようなものだ。
けれど、実際にはこういうことが起こる。自分でわかるようになるということにこだわれない人は、安易に既存の枠組みに当てはめて安心する方を選んでしまう。わかるというのは、その枠組み自体を自分で作ることだというのに。

ようするに、この一連の分解、組み立て作業を自分の力でやることができないわけだ。
どこでわければよいか、どれとどれを組み合わせて組み立てればよいかを指示されないとわからないというのは、何かを「わかる」ための思考力が欠けているということに他ならない。
社会的に認められた正解ばかりに頼ろうとするところが強すぎるのかもしれない。自分自身で何かを見つけ、その見つけたものに多少なりとも責任をもつことに対して臆病なのかもしれない。

でも、個々人がどう言うか、思うかは別として、社会全体は、個々人それぞれが自分で考え、わかる力を持つことを求める方向に明らかにシフトしているのではないだろうか。
昔ながらの人は、安定した正解を重視する姿勢をもるのかもきれないが、何かこれまでとは違った新しいものを生み出していくことを重視する人はいままでにない新しい考えをできる個人を尊重するのではないだろうか。
だとしたら、個々人が社会的にも未知のことがらに対して、自分なりの思考努力を通じて、何かをわかり、そのわかったことを土台に新しい何かを社会的に生みだす努力に向かうことを、もっと求めてよいはずだと思う。

そのためにも僕らは、ボール紙の仮面の背後から、筋のとおったものを見つける術をちゃんと身につける必要がある。

#コラム #思考 #エッセイ #イノベーション #ビジネス #理解

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。