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答えを見つけることを楽しむ

答えが見つからない時、つらそうな表情をしてしまう人がいる。そして、あきらめてしまって愚痴をこぼしはじめる。

そもそもの仕事をする上でのスタンスが違うんだろうなと思う。
プロフェッショナルの仕事というのは、基本的にクライアントが自分たちでは解けない難問を責任をもって解くことだろう。
で、プロフェッショナルとして仕事を続けていきたいならその「難問を解く」という責務を楽しめるようでないと、仕事が単につらいものになってしまう。いつも新しい仕事がはじまる度に、ああ、いやだななんて感じなきゃいけないとしたら、僕には耐えられない。

すべてのプロフェッショナルな仕事は答えを出すことで、それに責任を持つことが欠かせない

もちろん、何に対して、どんな答えを出すかは、何のプロフェッショナルであるかで違う。
料理のプロ、野球のプロ、医療のプロ、経営コンサルティングのプロ、特定工学分野の技術のプロ、グラフィックデザインのプロ、価値創出のプロなどなど。答えを欲する人びとのニーズの数だけ、プロフェッショナルの種類もある。

だが、何のプロフェッショナルであろうと、観客やクライアントが求める答えを出すのが任務だ。
その任務を楽しめるかどうかは、その人自身がその仕事をする持続可能性に大きく影響するはずだ。

極端な言い方をすれば、生き方の問題、人生に関わる問題である。

技術は最初から伴わない

何のプロフェッショナルであるにせよ、プロフェッショナルとして答えを出すには、技術がいる(もうひとつは広く深い知識だが、こっちはあとで)。

そして、当たり前だが、技術は最初から身についているものではない。
さらに、こっちは忘れられがちだが、技術習得はどこまで行ってもゴールには辿り着くことはない。
ようは永遠に新たな技術習得にチャレンジし続けられる。

安定などというものは、技術習得とは無縁のものである。
技術を習得することでそれまでできなかったことができるようになる
そのことを楽しめない人はそもそも何かができるようになって良かったという経験が少ないのだろうし、それもあって技術習得によって変わる自分を想像することができてないのだろう。
この時点で思考停止がある。

答えを探すことを楽しめない人にありがちなのは、「わたしには技術がない(足りない)」と平気でなんの疑問もなく言えてしまうことだ。

だが、上に書いた技術習得に関する事情を理解していれば、その言葉の無意味さに気づくはずである。
技術は最初から身についているものでもなければ、ここまで行ったら技術があると言えるというゴールがあるようなものではない。だからこそ、そもそも技術がある/ないなんて話はきわめて相対的なものでしかない

相対的なのだから、何と比較して、どういう基準において「技術がない/足りない」を明らかにしないと、その言明は何の意味もなさない。
だが、多くの場合、その基準を明らかにしたところで意味はない。「わたしには技術がない」という人は、そもそも単に「がんばりたくない」という言い訳の意味で言っているだけなのだろうから。

だから、本当の問題は、どうして答えを出すための技術習得に時間をかけ、解ける問題の幅を広げていこうとしないのか?にある。

ここでは、その問いに直接的な回答を試みるより、間接的なヒントを示してみたい。

公的な技術と私的な技術

技術には2つの種類があるのではないかと思う。

公的にある程度、標準化された技術と、個々人が属人的に身につける技術だ。
厳密に区別されるものではなく、公的な技術とほとんど変わらない技術を私的に身につけるケースはいくらでもあると思われるからだ。

ここで言いたいのは、私的な技術ということをちゃんと理解しておくことだ。
仕事の現場では圧倒的にこちらの方が必要なものだから。公的な技術に基づくものでも私的な技術としてチューンナップできてるかで仕事の質は圧倒的に変わる。

というのも、結局のところ、プロフェッショナルが仕事で相手にする問題というのは、常に個別事象でしかないからだ。

同じプロフェッショナル野球の試合での1点差負けの9回2死満塁での打席だろうと1つとして同じ状況はなく、結果を出すためにプロのバッターに求められる技術は公的なものだけではどうにもならないはずだ。

それと同じことがあらゆるプロフェッショナルの仕事のあらゆる問題に生じている。事象が異なれば、そこで有効な技術も異なる。極端な話、個別の事象の数だけ技術が必要だ。現実的には個別の事象に合わせて、技術を応用的に調整できるかである。
これがわかってないから、技術の習得に時間をかける必要がわからないのだろうと思う。

公的な技術ももちろん使い道はあるが、それだけでは個別の事象に合わせきれずに、すぐに暗礁に乗り上げてしまう。
ひとつ前の「理解力と転換力」で、方法論だけでは足りないと書いたのはまさにその意味でだ。

方法論という公的な技術で乗り越えていくには、現実の事象は個別事象すぎて公的な技術だけでは数的に追いつかない。個別事象にも対応可能な私的技術の幅を持っていないと、壁を乗り越えて、答えを見つけることができないだろう。
これが時間をかけて技術を習得することで、見つけられる答えの幅を広げることが必要な理由だ。

答えを見つけることを楽しめるか?

手持ちの技術では答えの発見がむずかしいことに気づいたとき、つらい顔になってしまうか、ここぞとばかりに楽しんで自身のもつ私的な技術を駆使して問題に解決に当たれるかどうか?
それはひとえに私的な技術の習得量にかかっているだろう。

私的な技術をもっていたり、あるいは、この機会にその技術を習得したいと思えれ、そこで答えを見つける作業は本人にとっても楽しい時間になるはずだ。そうでなければ、つらい時間になるだろう。しかし、そうなってしまう人は仕事というものをそもそも何だと思っているのだろうか。とりわけプロフェッショナルの仕事というものを。

仕事というものを、求められた任務を完了することというだけでなく、自分の持つ技術を使って必要とされる答えを作りだす機会として私的にも同時に楽しむものだと位置づけられるかどうかで、仕事の質は変わってくるように思う。

答えは外から知識として与えられるもの、あるいは、答えを出すための数式や方法が与えられ、それに基づいて考えてさえいれば良いと思ってしまうこと。旧来的な教育がそういうものでありすぎたし、今でも完全にその状況から脱せられてないというのももちろんあるだろう。だが、それを自分自身の問題でなく、教育といえ外側の問題にばかりしているのは、そもそも自分の人生を何だと思っているのか?という話になる。

答えとは、さまざまな目の前の事実や人びとの解釈や思い、あるいは現在の問題に関係する過去の経緯やその業界における慣例や市場における動向など、とにかく現実におけるあらゆる条件、状況を加味して、自分(たち)自身で見つけ、構築するものだということがわかっていて、そういうものとして取り組む姿勢ができているか。

いまも昔も問われているのはそのことだ。

仕事において、社会において、そして、人生において、「答え」、いや自分と自分が対峙している相手がこれから何を成すべきかという方針をつくり、その実現に向けての行動をすることが楽しめるか、それとも、いやいやながら義務としてやるのか。
そのスタンスの違いはとてつもなく大きい。

だから、シンプルに言ってしまえば、自分の人生をちゃんと自分で考えて生きるかどうか?だ。
自分で考えた行動に沿って生きるのか、誰かの指示によって生きるのか。
どちらの方がより楽しめるか?ということでしかない。

苦しいと文句を言ってばかりでは始まらない。自分自身の人生の日々をどう楽しいものにするかは、自分自身のデザイン次第なのだから。文句を言ったところで、結局その文句は、自分自身のデザインが悪さに由来するものでしかない。

楽しむための教養

僕なら、他人の考えから楽しみを得る確率より、自分が楽しいと思えることをやるために自分でやることを考えた方が、楽しさを味わう頻度も大きさも増すと思うので、自分で答えを見つける方を選ぶ。

そのためには、自分でいろんな事象に出会っても、その都度、答えが出せるよう、答えを出すための技術の習得は常日頃からしていこうといろんな努力をしてるし、実際に解くべき新たな事象に際してその時点で解くための技術がなくても、その答え探しを通じて技術の習得に当たることもある。

楽しむためには努力が必要だということを、もしかしたらわかってない人が多いのかもしれない。
ここで技術だけでなく、知識や教養ということも絡んでくるのだが、そもそも人はわかっていないことを楽しむことはむずかしいということに気づいているかということ。知らないことはそもそも何かわからないのだから、楽しめるはずもない。

理解力と転換力」で方法論だけではまったく不十分で、幅の広い教養が必要だと書いたのもまさにそれが理由だ。

物事を理解し、楽しみながら、その解決のための答えを探るためには、その過程でさまざまなことを考えるためにさまざまな情報に向き合うことになる。
関係者の語る言葉、ユーザーインタビューや有識者へのヒアリングなどで話される事柄、あるいはデスクトップで行う文献やネット上の情報など。
こうした情報の中にはわかっていること以上に、未知の情報が多く含まれるだろう。そして、未知の情報が多いほど、既存の答え以上のものを見つけるための素材として利用価値は高い。

となれば、未知の情報を使いこなせるだけの教養は多ければ多いほどよい
教養があれば未知の情報であっても、理解の前提となる文脈の把握がしやすくなるから。

逆に文脈の理解ができないと、なかなか未知の情報を「わかった」と受け入れることはむずかしい。
そして、そんな情報収集の時点で困難にぶち当たっていては、なかなか答えを見つける仕事を楽しむ余裕は作れないはずだ。

そういうわけで、日々教養を身につけるようなことを日課に組み込めてないとなかなか苦しい。そう、こういう日課の設定の有無もひとつの人生デザインの問題である。

楽しむための人生デザイン

結局、仕事を楽しめるかどうかは、自分自身の人生デザインに関わってくる。

これからあらゆる仕事がプロフェッショナルな仕事として、クリエイティブに答えを見つけだすものに収斂していくなかで、自分自身も答えを見つける仕事を楽しめるようにしていかないと、仕事がとにかく苦痛なものになってしまう

残念ながら、これまでの仕事と違って、そのことに関しては、所属する会社に対して、あるいは、上司や先輩に対して文句を言っても始まらない。
自身自身で楽しめる努力が日々できているか?という問題になので、会社であろうと上司であろうと、はたまた教育機関であろうと、本人がまず努力をしようという意思がない限り、サポートすらできない。

いやいや、もっとそもそも論的なことで言うと、単純に、どうして自分の人生を楽しいものにするためのことをしないのだろう?、ということだ。
自分の人生で楽しめる機会を増やすために、どうすればいいか考えたり、工夫して試してみて、いい方法を見つけたりといったことをしないのだろう。

苦しさを訴える人、つまらなさや退屈さを愚痴る人ほど、自分で楽しむための工夫をしていない気がする。楽しさが外から与えられるのを待ってる感じだ。

でも、さっきも書いたように、楽しむにはその対象やそれに関連することがわかってないといけない。
わからないことは楽しめないのだから、外から楽しいことを与えても、受けとる本人に与えられたものを楽しむための知識や理解がなければ楽しむことさえできない

その逆に、どんなむずかしい課題が仕事として与えられても、いろんな知識や教養、そして技術の習得ができでいれば、たとえ、それが仕事であっても楽しむことができるわけだ。

この極端な差が実際に存在している。楽しめる人と楽しめない人。

こういう観点で「楽しい」とはどういうことか、ということを、個々それぞれが考えてみることが大事だ。
自分にとって何が楽しいか?という現状を把握して、そこに安住しようとしてしまうではなく、いまは楽しいとは思わない事柄はどうしたら楽しむことができそうか?をポジティブに前向きに考え、自分のこの先の行動をデザインしてみること。あくまで現状がどうかをスタティックに考えるのではなく、この先、どういう変化を生み出したいかという観点で自分の行動、人生をデザインするということだ。

もちろん、仕事に限らない。
人生をもっと楽しむためにも、できること、わかることは増えたほうが楽しい。
仕事も、人生も、もっと楽しむために、日々の努力ってもっと普通に自然にしていいはずだ。
自分をあまやしかしてたら、楽しいことを知らずに人生終わってしまう。
たとえ、100年あろうとも。

そんな観点で各自が人生をデザインすること。
それが社会のプロフェッショナル性も高め、社会における価値創造力も高めることになるだろう。

そうしたら、もっと社会自体も楽しいものに変わっていく。
それは社会の仕組みの問題でも何でもなく、個々人が自分の人生をどれだけ楽しいものとしてデザインできるかの問題である。

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