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変化と知識

昨日紹介した『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』の番外編。

著者のエイドリアン・ベジャンによる知能と知識に関する、こんな区別についても紹介しておきたい。

もし物理学現象としての知識と知能を区別するとすれば、知能は知識を所有したり、創造したり、伝えたりする人間の能力ということになる。

まず「物理学現象としての知識と知能」っていうのがいいよね。知識や知恵まで物理学の現象として捉えようとする徹底した姿勢。

で、物理学現象としての知能がそんな風に知識を扱う能力だとすれば、知識のほうはどうか?

知識とは、アイデア(デザイン変更)と行動(デザイン変更の実行)という、同時に存在する、デザインの2つの特徴の名称なのだ。データや本のページは知識ではない。デザイン変更は自然に広まり、動きの拡がりを促進し、高める。

ここで、知識とは、アイデアだけではなく、それを実行に移す行動も含めたものだとされる。だから、それはデータや本のページではないというのだ。データや本に記されたアイデアを実行する行動も含めて、はじめて知識となる。

そして、その知識とは、デザイン変更に関わるアイデアであり、その実行だ。より良い流れを作り出すためのレイアウト=デザイン=構成の変更のためのアイデアであり、行動である。
ようするに生き続けるためのアイデアと行動。そうしたバイタリティに直結したものを本来、知識というのだろう。

だから、知識人とは本来行動する人でもある。
はずだ。

人間の自由

ところで、新たに読みはじめた『イメージ人類学』という本で、著者のハンス・ベルティンクは「さまざまなイメージが存在するということ自体が証明しているように、イメージにとっては変化こそが唯一の連続性であり、イメージを変化させることだけが人間に可能な自由である」と書いている。

またしても「変化」だ。
そして、イメージを変化させることだけが人間に可能な自由だとベルティンクはいう。そして、こう続ける。

イメージはしたがって、疑問の余地のないほどに、人間の本質がいかに変化するものであるかを示している。こうした変化が示すように、人間は、世界や自己自身への問いに新たな方向を与えようとすれば、みずから作り出したイメージをやがて放棄することになる。

人間の本質は変化である。
それはベジャンも明らかにしていたとおりで、人間に限らず生きるものすべての本質が変化だ。

そして、この変化のためにアイデアと行動を起こせるのが人間である。
であれば、それまで維持していたイメージを放棄し、別のイメージを手にすることで、人間は「世界や自己自身への問いに新たな方向を与え」る。つまり、流れを変えるアイデアと行動がそれだ。それは知識に基づく知的な活動である。そして、それはより良い方向へと流れを変えるアイデアと行動のはずである。

であるなら、ベルティンクがこう書くのも、ある意味では良い流れを作るため、ということもできそうだ。

自己自身について確かなことは何も知りえないという人間の不安定な本性から、己を他者としてイメージの内に見ようとする性向が生まれるのである。

良さそうに見えない、って。
であれば、こんなベジャンの言葉で補足しておこう。

最適なものとは、変化のあとで得られたほんの一握りの選択肢のなかで、いちばんましなものにすぎない。「最良」は長続きしない。今日は重要でも、明日にはろくな価値もないものになる。

良いというのはあくまで相対的なものだということだ。
だからこそ、変化は続き、あらゆるものは生き続けるのだけど。

テクストの中の知識

先に、本の中にあるのは知識ではない、と書いた。けれど、そこから知識をよびだすことはできる。

少し前に紹介した『アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史』で、著者の阿部成樹さんは、オスカー・ワイルドと彼の有名な作品『ドリアン・グレイの肖像』に次のように書いている。

ここに見て取れるのは、内容あるいは主題に対する可視的な形態の優越という思想である。作品とは具体化されたかたちであり、そのかたちそのものが象徴的意味を産出するとの作品観をここに見て取ることができる(「すべて芸術は表面的であり、しかも象徴的である」)。そしてその優越性は、かたちを固定したものとしてではなく、変容の契機をはらんだものとして見るときにいっそうあらわになるだろう。この世紀末の作家にとって作品の生を感じ取ることとは、それがもつ形態に変化を見て取ることなのであり、それが『グレイ』の主題であったということになる。

ワイルドにとって「作品の生を感じ取ることとは、それがもつ形態に変化を見て取ること」、そして、それが『ドリアン・グレイの肖像』というワイルドにとっての唯一の長編小説で、老いることのない主人公ドリアン・グレイと彼の代わりに老いる彼の肖像画を題材とした作品の主題だという。

文字通り「形態に変化を見」ることができる老いる肖像画は、「作品の生を感じ取る」ことのできる作品だろう。一方で老いることのないグレイ本人の方は、ベジャンの言い方をすれば「変化し、より良いアクセスを見つける自由を動きが持たないときには、生命は終わる」という状態なわけで、死んでいる。

後半、みずから行った様々な罪を悔いたグレイは絵を描く破壊しようとする。その後には醜い老人の死体と美少年の絵が残されることになるが、そこにはベジャンのいう「流れのデザイン変更」があったと言える。

そして、この作品を描いたワイルド自身、このテクストの中に、知識に通ずるものを吹き込むことに成功したといえる。もちろん、その息吹を開放して知識に変えられるかは、読者それぞれにかかっているのだとしても。

生きた有機体の本質

大好きなエリザベス・シューエルの『オルフェウスの声』からも、関連しそうなこんなセンテンスを引用しておこう。

生物学者は大体において、それだけで彼らの扱う主題にぴったりくる道具として数学は向かないと感じている。生きた有機体の本質は時間と変化であるのに、数学が本質的に時間と無関係の世界だということもあるし、大体が生物学の素材が数学や論理学の手法に合うような小単位に分け難いもの、ということもある。これはビュフォンも問題にし、キュヴィエも指摘している点だ。生物学者としてのゲーテの最大の主題でもある。

「生きた有機体の本質は時間と変化である」。このことについては、もはや言うまでもないだろう。
しかし、それに続く、「数学が本質的に時間と無関係の世界」だとか「生物学の素材が数学や論理学の手法に合うような小単位に分け難いもの」ということは問題だろう。

しかし、ベジャンが「流れ」というものに着目するダイナミックな科学を打ち立てたことで、従来のスタティックな科学や数学の呪縛を拭い去ったいま、生物も無生物も同じ「コンストラクタル法則」で考えることができる。

となれば、本質が時間や変化であるのは有機的な生物のみならず、無生物でも同様だと考えられる。
そして、そのうちで、デザイン変更のアイデアとその実行を自由に行える知識を持った人間こそが知能をもったものだということになる。

シューエルが引くフランシス・ベーコンの『知の球体論』の次のような記述が、約400年の時を超えてベジャンのコンストラクタル法則と共鳴する。

私としては、技芸が何か自然とは異なれるものであり、従って人為のものは全く種類の違ったものとして、自然のものから峻別されるべしというふうに言ってみるのが流行している現況に鑑みて尚のこと、技芸史を自然史の一部と考えてみたくなるのである。右の如き弊風あるによって自然史の記述家の大方が動物、植物、そして鉱物の歴史を考えれば足りるので、(哲学にとっては最重要な)機械的技芸の諸実験入り込むことなどないと考えるようになっている。……かくて自然は常にひとつたり、自然の力は万物万有に及び、かつも自然は決してみずからを見棄てることはない以上、これら3つのものは是非とも等しくひとり自然にのみ従うのでなければならない。即ち自然の経路、自然の逸脱、そして技芸、というか人間が力貸す自然の3つである。そして、かるが故、ナチュラル・ヒストリーにおいてこれらの全てがひとつの連続して切れ目のない物語に取り込まれているのでなければならない。

ベーコンはこうした自然による変化と人間の技芸による変化を別け隔てなく扱う知の体系を構想していた。ベジャン同様、変化に着目することでその統合を図ろうと構想した。

知能の定義

こうした変化を扱うデザインアイデアとその実行の力が人間の知識である。そして、その知識を扱う力が知能である。

「人工知能の根本的な問題は知能とは何かが本当にわかっている人が誰もいないことである」とするレッグとハターという2人の科学者の見解を紹介している。
そして、彼ら2人がさまざまな人々の知能に関する見解を参照して、それらの所見をまとめる形で導きだした、次のような知能の定義を紹介している。

知能とは、行動主体が多様な環境において目標を達成する能力の程度を示す

と。

けれど、行動主体の目標達成には終わりはない。ひとつの目標を達成したら、すぐにまた別の目標が見つかってしまうからだ。

変化と、変化の拡がりには伝染性があり、終わりはない。

この変化を行うのも、変化を終わりないものにしてしまうのも知識である。
そして、それを次々と発動させ、ずっと変化し続け、常に前よりも良い流れを見つけ出せるようにするのも、途中で止まって停滞を招いてしまうのも、どちらも人間の知能のなせる技である。

変化というものに注目することで、知識というものに対する見方は大きく変わり、より本質的なものになるように思う。そうではないだろうか?


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