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理解力と転換力

問題を適切に理解し、課題解決策へと転換する。
よりシンプルに言えば、問いと解の両方をつくりだすことだ。

状況を適切に理解する

たとえば、関係者へのヒアリングや事前調査の資料の閲覧を通じて、あるクライアントの現市場環境における問題を洗い出し、適切に取り組むべき課題を設定し、力のある解決策を見つけだす。「力のある」とは、その解決策によって社会的環境に大きな変化を及ぼし、クライアントにとっても利点があるようなものだ。

また、たとえば、クライアント自身が具体的な問題を把握していない場合もあるだろう。
既存のビジネスの延長ではない新たな領域でのビジネス展開を考えているときなどだ。その場合、現状は把握のためのリサーチそのものの課題設定そのものからクリエイティブな作業となる。
しかし、それとて適切な情報収集に基づいて状況を理解し、課題解決へと転換する、同じ流れを踏めれば、そんなに大きな違いは本来はない

課題設定の品質

言葉による情報だろうと、写真や動画などの視覚的情報、あるいは実物そのものの物的情報とその体験による知見など、情報の種類がいかなるものであろうと、情報を適切に集め、そこから現在置かれた状況における問題点あるいは可能性をきちんと拾い上げられなければ、そこから課題解決のための正しい課題設定はできない。

しかし、たいていはこの課題設定がゆるふわすぎて話にならない。
それ、ちゃんと情報を集めて、ちゃんとした整理を経て、検討した結果なのだろうか?というほど、ごくごくありふれた課題設定になってしまうことが多い。

正しい問いが立てられてこそ、正しい解は導ける。
その意味で課題設定の質の低さは、そのまま解の品質の低さにつながるゆゆしき問題だ。

けれど、この課題設定がとにかくうまくない。

ひとつには設定した課題をみて、これが解決されれば、社会や人々、そして自社に何をもたらすことができ、それが現実に起こりそうか?という観点でみたときに、まともに答えられない課題設定になってしまうことがある。また答えられたとしても、それだけのことしか起こらないし、それってすでに起こっていることと何が違うの?と思えてしまうケースもある。

結局はたくさん情報収集した割に、現状の把握がほとんどできていないということと変わらない。
社会がどう変わるとよいか、
それは本当に変わる必要があるか、
どんな方向にどう変わると良さそうか、
そういったことに答えられる理解が形成できていないのだろう。

それは自社のビジネスにとっても同様で、どんな状況変化を起こせるとどんな利益が得られるか、それは本当に自社にあったテーマで現実性はありそうか、などの面でも現状の理解が覚束なかったりする。

大事なのは手法ではない

こうした場面で、デザイン思考/サービスデザイン的な手法が採用されることは多いだろう。

しかし、いくら手法を用いようとも、そもそか理解形成力が伴わない場合、よい結果はなかなか望めない。

手法を用いて出てきたアウトプットの善し悪しが、上に書いたような意味において品質が伴わないのに、その品質の判断が可能な理解力がなければ、品質的に合格に達しないものもスルーされてしまうからだ。

さらに言えば、こうした場合、複数の手法を組み合わせて順に使っていくこともあると思うが、手法間のインプット/アウトプットの関係がうまく制御できないために、途中で発想の質、思考の質が劣化してしまうこともある。
それは手法そのものの理解が足りてないという問題ではなくて、問われているテーマそのものに対する理解が足りていないが故に起こる問題だ。

"deep dive"などという言葉が用いられるように、普段は気づかないような深い理解がイノベーティブな問題解決の場面では必要だが、多くの場合、エンドユーザーの理解はある程度、深くできたとしてもビジネス理解、社会環境の理解、文化や歴史的な背景のような広い視点で深く理解することが欠けてしまうから、いくら有効な手法を用いても、使う側の思考が追いつかず、必要な理解が得られないケースは少なくない。

理解力の向上が必要

少し前まで、デザイン思考のような手法、最近ではそれに加えてアート思考などももてはやされてきたが、それだけでは足りないのだと思う。
それらが意味のないものだということではなく、そうした手法を使いこなして結果をだすためにも、それとは別により広い視点での理解力が必要だということだ。単純に理解しようとする対象に対する理解が足りていなかったり、社会への人間へのそもそもの理解が浅かったりすれば、深い理解を得ることはむずかしい。

深い理解を形成する力を入れて身につけるには、リベラルアーツとでも言うような広い教養がやはり欠かせないのだと思う。
シンプルに言えば、やっぱり本を読まない人より読んでる人の方がこのあたりの教養は深くなる。もちろん、本を読まない分、ほかで代替することもできるから、必ずしも読書量だけで測れないにしてもだ。

ただ、本を読むことによる読解力の鍛錬という側面もある。
わからない情報をどうやったらわかるようにできるかという読解力。そもそも、わかってるつもりを回避することも含まれる。
当然、わかりやすい本ばかり読んでいたりしたら、この力は鍛えられない。

あとはアート思考など関係なく、芸術に触れることだし、マーケティングとか会計とかサプライチェーンなどの基本的なビジネスの理解も必要だろう。

単なるトレンド的な情報に溺れるのではなく、しっかりと大きな変化について考え、それを構造的に理解する力をつけるには歴史に対する知識もあるとよいし、文化とそこにある有形無形の人工物との関係を考えられるようになるためにも人類学やはたまた認知科学のような知識もあると良い。

理解力を高めるということはこういうこだと思うので、ぼやぼやしてる暇など誰にもないように思う(先日「大人の学び」などということを考えた理由がここにある)。

解決策への転換

もちろん、課題設定力だけでなく、解決策を導く力も欠かせない。設定された課題を、その解決の具体的な方法へと転換する力だ。

得てしてあるのが、課題設定まではいけてたのに、具体的な解決策の段階になって急につまらないものになってしまうというケースだ。

いずれのケースも、それでどんな具体的な変化が社会環境に生じさせることができるか?がおろそかになってしまう。
課題設定で、こういう世界を作りたいというヴィジョンが明らかになっていても、解決策を考える人が別だったりすると、その世界観の理解が浅かったりして、実現したいヴィジョンとそのための(はずの)ソリューションがつながらないものになってしまったり。

まあ、結局のところ、ここでも理解力だということだ。
理解が足りてないと転換もできない
とうぜんだろう。元の状態がわかっていてこその転換なのだから。

問いと解はセットなのだと思う。
的確に問いが立てられてはじめて、そこを基点にして、さまざまな方向に解決策への転換を図ることができる。
さまざま考えてみた策のうち、もっともヴィジョンの実現につながりそうな策をブラッシュアップできるとよい。

その意味では、解決策を考えるためにめ、理解力を高めるのと同様の教養が必要になる。教養の幅と深さがそのまま解決策の幅と深さにつながる。
策の幅が広ければ、ヴィジョン実現の確率は高まるだろう。

1つ前に書いた、こんなことを再掲しておこう。

知識とは、アイデア(デザイン変更)と行動(デザイン変更の実行)という、同時に存在する、デザインの2つの特徴の名称なのだ。データや本のページは知識ではない。デザイン変更は自然に広まり、動きの拡がりを促進し、高める。

流れをより良い状態にするためのデザイン変更という観点から生物、無生物、そして人工物の進化を物理学的視点で統合するコンストラクタル法則を提唱するエイドリアン・ベジャンの言葉だ。

こうしたビジネスとは一見関係のないところからもちゃんと知見を得られるようになると仕事は楽になるし、たぶん質も上がる


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