見出し画像

再物質化するイメージと動きだす世界

物事を変化で捉えることが大事だ。
そのことをここ最近はいろんな書き方で繰り返し書いてきているだけのような気がする。

こうまでして、何度もそのことについて書こうと思うのは、逆に世の中のものの見方が静的、固定的な見方に偏重しているように感じてならないからだ。

単純なことでいえば、想像力がない

いま目の前にあることしか考えの対象にできず、次に何が起こるからとか、自分がそこに存在することやこれから行なうことで何が変化するかを想像して、いろんな判断ができないし、思考ができない。だから、常に現実の変化に出遅れて、あたふたと見当違いの対応を無駄にすることになる。

もちろん、それは自分にとっても、周りにとっても害にこそ、益にはならないので、みんなストレスがたまる。その極端な例が環境危機、気候変動や資源不足などの問題といってよい。

想像力なさゆえの出遅れ感が甚だしい。

ヴィジョンと計画が欠けて

もちろん、地球規模の環境問題などは極端な例とはいえ、想像力がないゆえに、変化による影響を加味することなく行動した/しなかった結果、本来免れえた負の結果が現実となり、精神的にも物理的にもストレスが生じる事態になってしまうことは少なくない。

想像力に欠けた多くの人がそれは仕方がないことと思ってしまうかもしれないが、それらはちゃんと事前に予測して対処していれば、受けずに済んだリスクである。
出かける前に天気予報で雨だとわかって、折りたたみ傘をもっていけば濡れずに済んだのにレベルの、自分が行動を起こす前の事前の準備が欠如してしまっているがゆえに、たくさんの不具合が秒単位で起こっている。

物事は秒単位で変化しているし、それは自分を含めた物理的な存在が何らかの動作をすることに基づく変化であること、そして、生きることとはそもそもそうした変化にどうやって対処するかを考え判断し実行に移し続けることだとわかっていれば、こんなにも多くの不具合は起こらないはずで、ここまで真剣に持続可能性なんて問わずに済んだはずである。

だって、変化を前提に想像力をもって行動を判断するということ自体、持続可能性をデフォルトで確保しようとする姿勢にほかならないのだから。
そうしないから、あらゆる面での出遅れが生じ、あとから問題処理的に事に当たらなくてはならずストレスだらけになってしまうのだ。

ストレスフルな問題処理的事項のほぼすべてが想像力の欠如による、ヴィジョンの無さと無計画な行動から生じている。

次に何が起こるかを個々人がちゃんと自分で考えて判断し、ともに行動したり生きている人たちともいっしょにヴィジョンや計画という面で納得感をもって行動していけるようにすること。そういうことが普通にできる力があらゆる人に求められるようになっているのだと思う。

外から敷かれたレールや、既存の仕組みにしたがって、何も考えずに日々の仕事をしていれば済むような生き方はもはや、持続可能性の観点からもNOを突きつけられている。

出遅れによるストレスから解放されたい

そんなストレスから解放されたいと思うからこそ、物事をちゃんと変化という観点をデフォルトにして思考するスタイルへの変更を促したい。

僕がアンリ・ベルクソンの『物質と記憶』すこし前のnoteで絶賛したのは、まさにそうした思考スタイルのアップデートに、ベルクソンの視点がぴったりだと思ったからだ。

知覚するということは、対象の総体から、それらに対する私の身体の可能的行為を浮かび上がらせるということなのだ。

というベルクソンの言葉は、物事をどう見るかと、それによって自分がどれだけの行動を行うことができるかの可能性が比例的な関係にあるということに他ならない。

つまり、対象の知覚はそのままみずからの行動を促すことの原動力となる未来に向けた想像力に直結しているわけで、いま見たものからどんな未来の兆候を読み取ることができるかで、その人が将来的に得られるものの質も量も変化する。
社会的なトレンド的な動向からいち早く新たなビジネス機会の兆候を読み取れれば、ビジネス的な成功を得る確率は高まるのと同じことだ。

逆に、ちゃんと見たもの、感じたものから身体が自然と動くようなインプットを得られないのだとしたら、知的生物の思考力という点ではかなりクオリティに問題があるといえる。

一般的な言葉でいえば、先読み力だろうか。
それは未来の変化を事前に察知し、カウンター的に対応できるようにしておこうという受け身の姿勢ではないだろう。外部の環境と無縁な生物など存在しないのだから、受け身になる部分があるのは当然にしても、変化の流れ=ベクトルを理解することで、自分の行動や流れそのものの方向性の調整なども含めて、主体的な企図をもって動くことを意味するはずである。

そう。企図。そういう意思が大事だ。
自分でちゃんと将来を見据えて動くこと。もちろん、その動きが単に利己的であるのは考え方が古くて、まわりとの共生を視野に入れての利他的な面でも同時に想像力を働かせて、変化の流れに応じたシステム的なデザイン(ヴィジョンと計画!)を行える力をもつことだけが、このストレスフルな世の中を変える原動力のはずである。

極端な道具化

まったくもって、何故、こんなにも物事を静的に捉えてしまう思考法がデフォルトになってしまったのか?と思う。

もちろん、直接的には、いろんなものをシステム化、ソリューション化、道具化、機械化してしまい、人間自らが状況に応じて工夫して、つくりだす力を失う方向に社会を作ってきてしまったことが要因であろう。

そのおかげで、漬け物や調味料さえ自分ではつくれず出来上がったものをスーパーやコンビニで買うしかなくなったし、漢字もPCやスマホが変換してくれないと書けないし、仕事でさえやり方が専用の機械やツールやメソッドがなくてはできなくなってしまった。
なにか知らないことを知ること、理解することですら、自分で情報を集めて分析して仮説を考え実験を通じて検証してみて知識や理解につなげるということをしなくても、ネットを検索すれば答えが見つかる。

そうした自分以外の道具が何も考えず作業しなくても勝手に結果が手に入る状態に連れていってくれるようなことばかりに慣れてしまえば、世の中の物事が常に変化し実は予想外のことばかり起こる不安定な状態で一寸先は闇であることなんかも忘れてしまうだろう。
いや、忘れるというより、生まれてこの方、考えてもみなくても済んでしまう。

こうした道具化は当然ながら、生じうる変化を限定的なもの、静的なものにしてしまう。誰がやっても同じスタート地点から同じゴール地点にしかいかない。スタートからゴールへという意味では変化が生じるが、いつでも同じ変化しか起きないという意味では静止してしまっている。
僕などからすると馬鹿げたことにしか思えないのだが、いわゆる今までないものを創造するという意味でのイノベーションを起こすことにすら、こうしたツールがないかと求める人がいたりするから、もはや変化とは?創造とは?とわからなくなる。

しかし、そういうツールが世の中をスタティックな変化しか生じない、機械的なものに見せてしまうようになったのは結果でしかない。
それより僕が問いたいのは、何故、そんなことで良い、いや、そんなことが良いことだと思えてしまったのか?だ。
そうした道具化に突き進んだ背景にある物事の見方、価値観についてだ。

死者の代理としての像

その1つのヒントに、ハンス・ベルティンクの『イメージ人類学』を読んでいて思い当たる。

この本では、まずイメージ=像は、歴史以前の人類の暮らしにおいて、死者の代理という役割において存在していたことを指摘することからはじまる(詳しくは「肖像に話しかけて」を参照)。

死者は失った身体を像と交換し、生者たちのあいだにとどまる。

残された生者は、この像に向かって、当の対象が生きていた時と同じように話しかける。代理というのはそういう意味だ。もちろん、生者の話しかけたことに対して、像の側からの返答はない。だが、だからといって死者と像は異なるとは考えない。それが当時の象徴的思考で、それはシャーマンが動物とつながることができたのと同じ思考のスタイルである。

身体とイメージの切り離し**

しかし、時代が大きく下って、古代ギリシャくらいになると、像=イメージと身体は別物として切り離される

古代ギリシャの時代、プラトンが芸術的な行為をまやかし的なものとして否定したことはよく知られているが、このプラトンの芸術そしてイメージに対する見方を、ベルティンクはこう論じている。

プラトンのイメージ論は、イメージと死の問題がもはや重大な関心事ではなくなった時代の歴史的な文化の土壌から生まれた産物である。

像=イメージがもはや死者の代理としては機能できなくなった結果、プラトンのようにイメージをまやかし的なものとして断罪することができるようになったわけである。

しかし、ベルティンクが指摘するように、このプラトンによるイメージの否定の根拠となるものは、プラトンが否定した芸術がそもそも成立可能になった要因と同じものなのである。

芸術概念の成立としてこのように記述される事態は、像が死者崇拝から引き離された結果、生じた構造とも理解できるだろう。アナロジーが死者崇拝においてもっていた存在論的指示関数は、芸術作品の技術的側面への賞賛とともに消え去るのである。

イメージが死者の代理でなくなったからこそ、死による不在の状況で生者と死者をつなぐ通信的な機能から切り離されて自由になったからこそ、芸術作品はその作品そのものの創作に関わる技術的な側面から評価可能になったわけである。

イメージは、身体という生のメディアから切り離され、二元論的な物資と精神の断絶に巻き込まれていくことになる。
それはベルクソンが「知覚を事物の奥に置く」といって物質と精神をイマージュ=イメージを介してつなぎとめることで二元論的な罠から抜け出す方法を明らかにしたのとは真逆な解釈が行われたということである。

このイメージと身体の切り離しから二元論も、心身問題も、そして想像力を欠いたがゆえの持続可能性の問題も生じてきてしまっている。

影が身体から切り離された機械論的世界

しかし、時代はさらに下って、中世の終わり、ルネサンスの初期、ダンテはこの古代人たちがイメージと身体を切り離す見方をさらに推し進める。

彼は古代の先駆者たちよりも徹底的に像と身体を対照させ、それに必要な決定的前提を創出する。それはまず、身体は決して像ではないこと、そして、像は決して身体をもたないということ、という二重の主張であった。

ダンテは『神曲』の地獄編、煉獄編において身体をもたない影を登場させる。
ダンテや地獄や煉獄を案内する役割をになうウェルギリウスにしてもそうだ。死者であり、身体をもたない魂である彼は、陽の光を浴びても影を残さない。彼自身が影=イメージであるから、影が影を生まないのは当然である。

こうした詩作を行うことで、ダンテが発明したものが、身体と像は別物であるということだ。

ダンテの試みが成功したのは、一方では影とのアナロジーによって、他方では身体との対比によって像を定義するという、二重の戦略によってイメージ論に新たな境地を切り開いたからにほかならない。こうした両様の定義が可能なのは、身体との関係が影におのずと含まれるからである。両定義をまとめて一般的な定式で表すとすれば、像は影のようなものであり、したがって身体とは別物である、となる。像が身体から区別されるのは、ちょうど影が身体から区別されるようなものであり、同様に影が身体に類似しているように、像は身体と類似しているのだ。

物質である身体はこうして、精神的なイメージである像と完全に切り離される。これが古典世界の思考を延長した人文主義=Humanismである。
その人間主義、人間中心主義は、人間を自分自身の身体も含む自然、物質から切り離してしまい、自然や物質が本来デフォルトでもっている変化=動きからも無縁なものと自分たちを定義してしまうことで、世界そのものまで、スタティックなシステム、機械論的な存在に変えてしまったのだ。

再物質化するイメージ

しかし、である。
ベルティンクのこんな一節を読むと、現代におけるさらなる変化が予感される。

古代の詩人たちも、像を抱きしめることができないように、死者に触れることはできなかったのである。たとえば、ホメロスがそうしたむなしい抱擁を描写している。オデュッセウスは母の像を両腕で捕らえようとするが、それは「影か夢のように」ふわりと逃げてしまった。身体と像の混同は失望をもたらすだけなのである。

そう。ダンテが身体と切り離し、非物質的なものであるかのように書き換えてしまったイメージ=像は、たしかに古代の世界以降、抱き締めることができない存在とかしてしまった。歴史以前も時代の人たちが代理の像をちゃんと抱きしめられたし、話しかけることもできたにもかかわらず、だ。

しかし、ここでふと気づくべきである。そうなのだ、僕らはもうすぐこの像=イメージをふたたび抱きしめることができるようになる。話しかけるだけでなく、話し合うことさえできるようになる。
そう、触覚的なものも含めたVR技術や、AI技術によってだ。

イメージが再び身体を、物質性をまとう日はそう遠くない。
そのとき、僕らはあらためて気づくことになる。

いままで身体をもたない像と思われていたイメージも、スマホ上のイメージがどんなにそのことを僕らが忘れていたとしても、それが存在するためにはスマホそのものの物質性や、それが動くための電力やそれをつくりだす物質的な資源が必要なこと、さらには膨大な通信が発生して世界中をデータが飛び交っているということを。

イメージはそもそもメディアという代理身体がなければ存在しえない。
ダンテがいくら自分自身でも忘れようとしても、影のない影のような死者を文学として描くためにも身体としての書物が不可欠なのだ。

代理ではない人工身体

さらには、こんなことも考えなくてはならないだろう。かつて生命をイメージとして現前化するには、彫像のような代理身体を用いるしかなかった。
けれど、いまや人工的な生きた身体をつくりだすこともそれほど非現実的なものではなくなってきている。
人工的につくられる生きた像=物質的イメージ
そこにAIによる知能のほうも人工化されたものが統合されたとき、イメージというものの意味もまた大きく変化するだろう。

そうした世界において、像のもつ物質性、そして、物質であるがゆえに常に変化し、まわりの変化にも影響を与える存在であることの意味はもっと考えやすくなるのではないかと思っている。

当然ながら、その状況になれば、僕ら人間のヴィジョンと計画をうみだす想像の力はより問われることは間違いない。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。