学ぶのは得意?

まわりを見ていると、この人は学ぶのが上手だなと思える人と、逆に、この人はちょっと学ぶのが上手くないなと感じる人がいる。

シンプルに言うと、得意な人は基本的に間口が広い。
他人の意見に耳を傾けるのが上手だし、自分とは違う他人の指摘をちゃんと受け入れられる。
そもそも学ぶことに貪欲だと、自分のいまの考えにこだわるより、自分がいま持ててはいない捉え方を他人から得る方を選べる。

つまり、何かがうまくいかないとき、うまくいかない理由を他人の側、外側に見るよりも、自分の側に問題がないかをちゃんと検討することができる(もちろん、単に自分に自信がもてないというのとは違う)。他人の悪いところに目を向けて非難するか、他人の良いところに目を向けて見習おうとするか。どちらに学びがあるかは一目瞭然。プライドはそこでは邪魔だ。

その姿勢があると、他人との意見の違いにちゃんと向き合うことで、異なる意見がどういうところから生まれているかを理解した上で、自分の意見そのものを調整できたりもするし、相手に対してもその違いをうまく生かした指摘もできたりする。
まあ、そこまでいかなくても、他人と自分の意見の違いに対して敵対的な姿勢をとらず、まずはいったん両方の意見を併置させておくこと、保留させておき、ゆっくりとアウフヘーベンが起こるのを待つことができる。

だから、そういう人はディスカッションが上手だったりもする。
ファシリテーションが上手というのとは違って、リードが得意かどうかは別の話。けれど、誰かにリードしてもらう場合でも、他人の意見の良さを受け入れつつ、そこにうまく自分の意見を乗せていくこともできるのが、学ぶことが得意な人だ。
ちゃんと他人の話しを受け止め、受け入れようとするから、話をする中で自分の意見そのものを発展させられる。他人の意見との違いを感じとり、うまくその良さを引き取り、自分の意見と融合させられるのだろう。
ようは、その発展の重なりが蓄積されて、その人の学びとなっていくのだと思う。

そして、そういう人は基本的にあんまり人をけなさない。自分ががんばろうという姿勢が基本にあるから、他人のちょっとしたダメな点を気にするより、良いところの方を見つけようとする。
その視点があるから、良いところを自分にも新しく取り入れる機会が増える。ダメな点を指摘する視点は結局、自分の視点でいい/悪いを言うだけなので新たな発見に恵まれないが、良いところを探す視点は新たなものの発見に出くわす機会もある。ここでも学べる人と学びが苦手な人の差があるんだと思う。学ぶのが苦手な人は自分の価値観のなかに閉じてしまう。閉じたままだと、新たな視点が増えにくい。

だから、学べる人は、いつも決まった人ばかりと絡むのではなく、いろんな人と話をしていろんな見方を得ようとすることができるのだろう。姿勢がオープン。オープンなマインドを持っているから、外から自分に必要なものを得ようとする。
発見しようという姿勢が自然にあり、かつ意図している人の成長は早い。

だが、それは目標もなく、無闇に手当たり次第、情報を入手しようとする、ただの情報中毒者とは違う。
情報中毒者は単に情報を浴びてることに満足してしまい、入手した情報を自分で吟味することをしないが、特定の学びを目標にしている人は情報をちゃんと自分のフィルターを通して吟味することができる。だから、ちゃんと情報を自分の知識へと変換して保持することができる。何が自分に必要かを考えつつ、オープンマインドでちょっと自分の持っていないものを受け入れられるバランス。これが大事なんだと思う。
だから、ちゃんとどうなりたいかを意識し、学びの計画を立てて、オープンマインドで外から学びを得るための行動を実行できる人は着実に成長する。
ようはそれをリサーチ=研究と呼ぶ。

逆にまわりをみて、みんな、ダメだとけなすことばかりで、いまの自分に胡座をかいてしまい、明確な自分の成長する姿をイメージできていないと成長は止まる。そして、すぐに自分が馬鹿にしていた人たちに抜かれてしまう。
そのくらい、学びの得意な人の成長力はすごい。まわりにそんな人が何人かいるので、そう感じる。
最近、そのことにあらためて気づけたおかげで、あー良かったと胸をなでおろしている。

そう。いま何ができるか?で人を評価するのはつまらない。
評価するなら、むしろ成長力こそを評価したいし、自分自身でも成長し続けることにこそ価値観をおいておきたいと思う。

と、めずらしく小難しさ皆無なことを書いてみた。

P.S.
追記として、ちょっと小難しい引用も紹介しておきたい。
読みはじめたばかりの由良君美さんの『椿説泰西浪漫派文学談義』より。
ここにあるものこそ異質なものから学ぶ=リサーチの極端なカタチだと感じたから。19世紀イギリスの文学者トマス・ド・クインシーのアジア幻想を評してのもの。

インドも中国もエジプトも無差別に入っているが、要するにドクウィンシーにとって、近代ヨーロッパに異質な一切のもの、原始の恐怖に触れる一切のものの集約されたイメージが、これらの東洋風の幻想となって、アヘンの夢を支配したのである。ロマン派のアヘン幻想には、近代西欧の価値意識を転倒さすものが含まれていたのである。これはもはや淡いエキゾチシズムではない。自己刑罰と自虐の燔祭の彼方に実存を掴もうとする美の行為なのである。

淡いエキゾチシズムこそ、先に情報中毒者と呼んだものに近い。それは自ら距離をとって対象に関わろうとする学びのない姿勢だ。一方、ド・クインシーのアジアへの恐れはそれにより自己を知ろうとする強烈な学びの姿勢だと感じた。

自分が認められず、恐怖すら感じるものから学ぶことができるか?これ、結構、学びの本質かもと思う。

#エッセイ #コラム #ビジネス #成長 #学習 #学び #ディスカッション #会話

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

「スキ」してくれて嬉しいです。ありがとう!
27

Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。