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自分が何者かなんて毎秒更新すればいい

自分の限界を固定してしまう思考や言説がとにかく嫌いだ。

いっけん立派な責任感を示すかのように、〇〇の役割だったらそれは自分でやるべきだとか、そういうことをやるのが〇〇の仕事だよね、と、その時々の状況などは無関係に、仕事や役割の範囲を勝手に限定して、何のことはない、ただやらない言い訳にする(あるいは他人にやらせる口実にする)のは、まったくもって創造的(クリエイティブ)でないし、素敵でもない。

創造的であろうとすれば、その時々の状況に応じて、その場で求められていることを実現する方法を、自分のそのときどんな役割を担うかということも含めて企画しデザインする方が素敵だと思う。
そこで普段の自分の役割とは異なるからなんていう、つまらない理由で参加を渋るなんて、かっこよくない。

もちろん、なんでもやろうっていう話ではない。できないなんて山ほどあっていい。だけど、とはいえ世の中的にそうだからとか、単にそれまで自分がそういうことをやってきたという「だから何?」と思える理由にもならない理由で、凄く狭い範囲に自分の役割を固定してしまい、柔軟に状況に合わせて、自分の仕事や役割を変えられないのは創造的じゃなさすぎて、素敵に思えない。
できれば、素敵な人が増えてほしいので、そのへんは気になる。

状況なんて似ているものはあっても同じものは2つとない。
だから、その異なる状況でどのような課題(チャレンジ)を設定して、それに対して自分はどの部分を担い、ほかの人とどう連携して課題をクリアするかの全体像を描いてみるほうが、いろんなことをもっと創造的に解決できるようになるはず。
そこで、自分は〇〇の職能だから、これをやるのが役目なんて固定してたら、創造的に異なる状況に対して適切なコミットすることなんてまったくできない。

そういうあまり意味のない固定が、世の中をよく変えることを妨げ、世の中そのものがあまりよろしくない状態で固定してしまう。
そういうの、みんな、望んでるのだろうか?
世の中が変わっていかない要因が、自分たち自身が自分のいろんなことを変えようしないことが影響してることに気づいているのだろうか?

『社会の新たな哲学』で、マヌエル・デランダは、世の中を構成するさまざまレベルの独立した「集合体」が、つねに「過程の産物」として「はかない状態」にあるものとして、独立した要素の「独自で特異的な」存在、活動の結果として、生まれ、変化し、消えていくものであるということを示している。
こうした常に過程にある、はかないものだある世の中のなかで、それを構成する独立した、独自で特異的な存在である個人が自分を固定することのつまらなさを感じてほしい。

集合体の同一性は、それがいかなる規模の水準のものであっても、つねに(領土化や、ある場合にはコード化の)過程の産物であり、つねにはかない状態にある。なぜなら、(脱領土化と脱コード化の)別の過程が集合体を不安定にさせるかもしれないからだ。このことゆえに、集合体の存在論的な地位は、それが大きいものであれ小さいものであれ、独自で特異的な複数の個の地位と、つねに同一である。言い換えると、分類学的な本質主義においては、類と種と個が分離した存在論的区分になっているのに対し、集合体の存在論は平坦である。なぜなら、集合体は、異なった規模をもつ個的な特異性(ないしはこのもの性 hacceities)以外のものを含まないからだ。社会の存在論が問題となるかぎり、このことは、人だけが社会の過程に関与する個的実体であるというのではなく、個々の共同体、個々の組織、個々の都市、個々の国民国家もそうであるということを意味している。

自分は〇〇の職能だからこれこれをやるのが仕事だなんて固定せず、常に異なる状況に対して毎秒、自分は何者なのかを創造的に更新、その時々の状況における課題をクリアするための自分の新たな役割を創造するほうがはるかに素敵だし、実利的でもある。

結局、自分の存在意義みたいなことに、みんな、不安を持ちすぎてしまっているのではないだろうか?
いや、でも、そんなの単に自分中心で考えすぎてるだけにすぎない。
存在意義なんてものは結局、自分で決めることじゃなく、それこそ、その時々に自分が関わっている状況でどんな意義を出せてるかということでしかない。

常にこういうことをしてれば周りから存在意義を認めてもらえるなんていう、固定した答えがあるものではない。広い意味でのコミュニケーションの問題だ。社会と、その時々の状況と、その状況に参加している人々と、自分自身のあいだで、自分はその場に応じた何を提示し、その場やその場にいる人々との間での交流や価値の交換や協調的な価値創造ができるか?という大きな意味でのコミュニケーション。
まさにそうしたコミュニケーションを通じて、その時々でその場で何が求められているか?ということに応じて、そこで自分が意味あるものを提供できれば意義を認めてもらえるし、そうでなければ何を出そうが認めてもらえないというだけだ。

当たり前だが、これまで何をやってきたかとか、こんな経歴があるとかいうことは、その場で結局、価値につながることができなければ何の意味もない。

という、ごくごく論理的な理由で、それぞれ異なる状況において、価値が出せるくらいには柔軟に自分の役割を更新して、その場にコミットできるかどうかでしか、本当の意味での「役割」なんてものは決めようがない。
その程度、自分自身で状況のヨミ、その場でどんなチャレンジを行われる必要があり、そのうち自分がどんな立ち位置でまわりと連携するとよいかというプランを、デザインを考えられるかどうかということこそがクリエイティブであり、価値創造的であるということではないだろうか?

自分の役割・存在意義を、過去の自分のやってきたことや過去の世の中的な常識で縛ってしまうのに意味なんてない。そんなものを求めるのはあまりに自分中心の考え過ぎで、思考が閉じていすぎる。まわりを見ようとしてないし、社会における自分とか、周りにいる人達にとっての自分とかというオープンな目が足りない。ましてや、そういう視点で他人に否定的な目を向け、批判するのはもってのほかだ。それはあなたの仕事でしょ?なんて決めつける前に、自分だとか他の人がそれを代替するような仕事のプロセスに変換する方法はないだろうか?と問う創造性くらいは普通にあってほしい。クローズドだったり、固定的だったりでいいことはない。

オープンな目、動的な目でみれば、自分がそこで何をやるべきかは、自分がそれまで何をやってきたかとか、自分の職能がこうだからとかいうこと以上に、その場において求められていることは何か?という観点から自分がそこで何をやればよいかが決まるはず。
そういう視点で、自分がやることを考えていけることこそが、クリエイティブであることの一番ベースとして必要なものではないだろうか?
なぜ自分自身を創造できない人が、ほかに何かを創造できるなんて思えるのか?

聞こえのいい言葉で自分をがんじがらめにして、つまらない状態に固定したくないものだ。
それより毎秒、周囲がどう変化しようとし、その変化にあたって何がその妨げになっているかという未知の部分に常に目を向け、その見えない障害を取り除くために、自分がどう変わり、どうそれにコミットすれば良いかを考える姿勢を失わないようにしたい。

#エッセイ #コラム #仕事 #クリエイティブ #役割 #創造 #ビジネス #デザイン

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