見出し画像

保守的であるということは……

先送り。いや、変わらぬことへの希求だろうか?

今日という、あまりに貧しい1日が、明日という、同じく貧しい1日に訴える。今日という日を含む、あまりに悲惨な1年が、今回かぎりの1年が、今現在の、あまりにも虚弱な1年が、明日という日を含む、同じく悲惨な1年に訴える。現在の悲惨が未来の悲惨に訴える。そして現在の虚弱が未来の虚弱に訴える。そして現在の謙遜が未来の謙遜に訴える。そして現在の人間的特性が未来の人間的特性に訴える。この考え方を、どうして否定することができるかしら。

ハッとさせられたりしないだろうか。あるいは、そうそう、こういうのが厄介なのだと感じたりしないだろうか。

『クリオ 歴史と異教的魂の対話』より。
20世紀初頭のフランスの作家シャルル・ペギーの作品。

ここでなされているのは、自分の行為が正しかったかどうかを未来の判断に委ねるという話。自己の行ったことの是非を歴史に問うという話。

クリオというのは、ギリシア神話の記憶を司る女神ムネモシュネの娘である9柱の文芸の女神たちの1人で、歴史を司る女神の名。
だから、クリオは「私は思ってもいないことを言わされる」と嘆く。
「戦いに敗れた者は誰であれ、歴史の法廷に訴え、歴史の審判を仰ぐ」のだと文句を言う。

ペギーのこの作品は、その歴史である女神とペギーの対話という形態をとる。対話といっても、ほとんど女神が語り続けるのだが。
話は女神の思いつきにより、どんどん進行する。小説でもない、エッセーでもない、思想書や歴史書でもない。何というジャンルに分類すべかわからない作品。
その奇妙な本のなかで、女神はいう。

私は思ってもいないことを言わされる。戦いに敗れた者は誰であれ、歴史の法廷に訴え、歴史の審判を仰ぐ。これもまた非宗教化の1つにはちがいない。時代が違えば、さまざまな民族や、さまざまな人間が〈神〉の審判を仰いで当然だったし、古代人ですら、ときとしてゼウスの裁きを仰ぐことがあった。ところが今では誰もが歴史の審判を仰ぐようになった。それが現代の提訴だから。それが現代の審判だから。(中略)向こうは私のことを裁判官だと思っているようだけど、私は(しがない)小役人にすぎない。向こうは私のことを〈神〉にも等しい裁き手だと思っているようだけど、私は記録係の女性職員にすぎない。

と。

正当化の手続きを先送りにする

20世紀初頭の「現代人」がクリオ自身である歴史に審判を仰ぐようになったと、女神は嘆く。自分は審判を下すような神ではなく、判決を下す裁判官ではなく、ただの記録係にすぎないと。

けれど、20世紀初頭の「現代人」は歴史に審判を仰ぐ。自分たちの子供に判決を委ねる。
もちろん、その背後には、未来において自分の過ちが許されること。現代においては結果の出なかった行為も、未来においては意味あるものとして認められること。そうした希望が見え隠れする。
父が未来の子に託す判決はそういうものだ。

敗れた人たちの言葉には、こちらが思うよりも明確な意味があって、自分はまだ後世の審判を仰ぎ、後世の法廷に訴えているのだ、と言いたいのかもしれない。ここでもまた正当化の手続きを子に任せているわけで、10年ほど前、私たちが子を介した呪いと非難、あるいは遡及する呪いと名づけた事象があるけど、あれを埋め合わせる必然的な代償であり、補完となるものが、ここにはある。要するに父親の側が息子の審判を仰ぐということで、父親はただ1つ、息子の法廷に出頭し、自分で自分を喚問することだけを望んでいる。

現代における敗退も、後世においては価値あるものとして正当化される。結果の出せなかった失敗も、いま取り返すのではなく、未来の判決に託す。もちろん、その判決を当の本人は聞くはずもない。

ただの評価の先送り。
問題解決の先延ばし。
これは20世紀初頭の「現代人」だけでなく、21世紀初頭の「現代人」である僕らもあまり変わらない。
いや、これだけ持続可能性が問われている僕らの場合、もはやそんな悠長に未来の審判に身を委ねてる場合ではない。スーパーやコンビニでレジ袋をもらってる場合ではない。

純情の完成形

しかし、問題は、審判を委ねる未来の子供たちというのも、結局、評価を先送りにした自分たちと何も変わらないということだ。

現に20世紀初頭から100年過ぎた僕らはすこしも評価を先送りにするクセは変わっていない。しかも、過去の人たちの評価なんてしてるヒマもないほど、自分たちのことで精一杯なのも変わらない。自分たちの評価を先送りにすることに精一杯で、過去の人のことを気にかけようなどと思いもしないことも変わらない。

先送りはまさに延々と先送りにされるだけだ。

不幸な人々は、自分に劣らず不幸な他人、つまり不幸の第2世代に当たる人々が自分の息子として生を享ける、そして不幸の第2世代は時間の中で自分より後に到来し、後続の世代を形成することで、後世、すなわち後々の人々になるという、たったそれだけの理由しかない。是が非でも裁かれ、賛美され、是認され、赦免されたい、その際の裁き手は、裁かれる自分以上の存在にはなれない人々、自分と同じ本性と、同じ限界と、同じ弱さと、同じ管轄能力の欠如を有する人間であってほしいという、前代未聞の幼稚な願望には、呼びかける相手が自分の息子として生を享け、新参者であり、後継者にも、相続人にもなるという、たったそれだけの理由しかない。

これを「純情の完成形」とクリオは呼ぶ。「これほどまでの幼稚」とクリオは呆れる。「完全な悪循環とすら言える」とクリオは評する。

考えのない、単なる引き伸ばしは、まさに考えのない結果にしか繋がらない。
幼稚な考えは幼稚な結果を生むだけだ。

完全な直線となって無制限に伸びる、一種独特な悪循環を、限度ぎりぎりまで拡大解釈して、悪循環の名で呼ぶことが今でも許されるとしたら。そのような線は時間の線そのもの、というよりもむしろ、この呼び方を使うことが今でも許されるとしたら、「持続」の線そのものに相当する。大量の時間を注ぎ込み(そうすれば道は開けるかもしれないと思って)、過ぎゆく時間から永遠を作り出すことを欲し、希望し、企図する者の狂乱。そしてまた一介の書記を裁きの〈神〉と取り違え、行為の記録を行為そのものと取り違える者の狂乱。公証人を父なる〈神〉や、遺産を残す被相続者と取り違える者の狂乱。

歴史は何も裁かない。それは単なる記録でしかない。僕たちのものをちゃんと相続してくれる機能なんて、歴史にはないし、後続の人間たちにもない。

保守的であるとは

過去の何を記述し、どう解釈するか、何を利用し、何を忘却するかは後の歴史家や後々の人々の勝手であって、「現代人」が未来に期待するようなことではない。ましてや、甘い期待とともに、未来に評価を託したり、問題解決を先延ばししたりするものではない。

過ぎゆく時間としても、かりそめの時間としても、後の世のものでありさえすれば、道は開けるかもしれないと思い、過ぎゆく時間と、かりそめの時間によって永遠を、そして必滅によって不滅を作り出そうという二様の狂信がそこにはある。これほどの一貫性をもって(十分な報いを受けることがない点で一貫した一貫性をもって)、また何事にも屈しない粘り強さをもって、父親が息子に裁かれ、息子の法廷に出頭しようとする姿は異様の一言に尽きる。まさに例外的な粘り強さを発揮し、前方に際限なく連なる、自分に劣らず不安定な人間の列を、是が非でも支えにしようとする不安定な人間の姿は異様の一言に尽きる。

これこそが保守的な姿勢というものだろう。
未来が何も変わらないものと夢想すること。変わらない未来の人たちに、いまとは異なる自分たちの評価の向上を託すこと。保守的であるとはこういうことだ。

たしかにクリオの言うように「異様の一言に尽きる」。
まったくもって狂信的だ。

けれど、保守的であるとは、こういうことなんだと思う。
未来がいまと変わらないことを無条件に前提として、自分たちの行為の正当性を未来から逆向きに担保しようとする。

問題解決を先送りにするという点でまったくもって無責任だし、いまの価値観が未来永劫続くということを信じて疑わない点で狂っている。

実際は裁きを下す世代の、今後到来する世代の1つひとつが単独で、過去に生まれたすべての世代と向き合い、これと対峙するわけだから。1人の人間が無際限に拡大する戦線で銃火の標的にされた姿を思い描くべきではない。人間は次から次へと生まれ、その誰もが無際限に伸びる照準線に沿って、無数の標的を精魂尽きるまで撃ちつづけるわけだから。

誰が未来であなたを見てくれるつもりでいるのだろうか?
そんな調子のいい考えで頭が一杯の無数ともいえる過去の厄介者のことをちゃんと考えてくれる未来人が本当にいると思うのだろうか?
はたして、一度でも、自分がそんな風に過去の人たちの思いを拾ってあげようとしただろうか?

こんな残念な思考をしていないだろうか。気づかないうちに、考えないうちに、結果、そういう態度をとってはいないだろうか。

それではいけない。

そんな風に、未来を標的にして、考えもなく銃火を浴びせるものではないだろう。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。