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判断力の根っこ

仕事をする上で大事な能力のひとつは判断力だと思う。

異なる選択肢が2つ以上ある場合、何を選んで仕事をその先の段階に進めていくか。はたまた目の前にある作業の結果を良しとしてそのまま進めるか、良くないとして修正に戻すか。

何かをつくりだす仕事は当然として、その他たいていの仕事のなかには、こうした「判断」の場面が日常的に何度も発生する。
判断基準があらかじめ明確になっていて、それに照らし合わせて判断すればよいことももちろん数多くあるだろうが、それと同じくらい基準は明確になっていないなかでその場で判断が委ねられる場合もあるだろう。

この後者の判断がどの程度、スムーズに、スピーディーに、ストレスなく、適切にできるかどうか。
そういう意味での判断力が仕事をする上で大事な力だと思う。

自分のことを判断する

では、どうしたら、その判断力はつくのか?

それがすべてとはいえないが、判断力が弱い人は、自分がどういうものを好み、どういうことをしたいか、逆にどういうものを好かず、やりたくないと思うかがわかっていないことが多い。
仕事のうえでの判断基準をもてない、つくれないというだけでなく、もっと至近距離にある自分自身のこと、ほとんど他人に影響が出ないことでも判断ができなかったりする。

もちろん、そういうタイプの人ではなくても、長期にわたって人生に影響があるような一大決断が必要な場面ではそれが自分自身のことだろうと、そうやすやすと判断はできない。いや、そういう場合は、自分のことだからこそ、判断はむずかしくなる。

でも、ここで言ってるのは、そういう決断ではない。
もっと気軽に決められてよいものだ。

例えば、食べ物や服の好みだったり、どういう趣味で、どういうものに欲望を感じるかとか。どんな作家が好きか、どんな作品を良いと思うかとか。あるいは、摂取したり保持したりしたいものがどういうものかを答えることができるかだとか。
そういう自分の日々の言動を選択する際の指標となるような、大小さまざまな好悪、良し悪しの基準があるか、どんな測定ツールを持てているか?という話だ。

こういう自分の好みとか、良し悪しの判断基準がなかったりすると、日常的にもさまざまな判断ができないし、新しいことにチャレンジしようにも何にチャレンジすればよいかを選ぶことができなくなる。

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なぜ?を問う、なぜ?に答える

結局、自分が相対する物事に対して、どう向き合うことができるか、ということなんだと思う。

目の前の食べ物が好きか嫌いか、美味しいと思うか、だとしたら、どういう美味しさで、なぜ、その美味しさは生まれていると思うのか。

目の前のアート作品をどう感じるか、良いか悪いか、自分の好みかそうじゃないか、それぞれ良いと思う理由、好みだと思う理由は何か、それは作品のどういうところから来るものなのか。

そういうことを自分に問えるか、そして、その問いに答えられるか。

そういう風に物事と自分の関係を吟味するような日常を送っているか。自分が良いと思うもの、自分が好きだと思うものを貪欲に求めているか。
あるいは、逆に、自分があまり良いと思わないもの、好きではないものをちゃんと自分のまわりから排除したり、場合によっては、世の中からなくする行動をしようと思ったりしているか。

日常相対する物事に対して、ちゃんとWHY?の問いをもって接することができているかが判断力を持つためには欠かせない。
もちろん、すべての物事にそんなことしてたら、疲れちゃうのだけれど、それこそ自分が好むもの、気になるもの、大事だと思うものに対してさえ、「なぜ?」という問いをもった探求を続けられていないのだとしたら、物事を判断する力をもつための基準を身につけることはできないだろう。

この日常の探求の有無が、判断力を鍛えるために欠かせないものだと気づいているだろうか。

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まわりの物差しに頼らない

自分の感情とまわりの物事との関係がわからなければ、他人のそれがわかるはずがない。自分の好みについて考えられない人が他人の好みについて深く考えることはむずかしい。

ユーザーエクスペリエンス(UX)やマーケティング、ソーシャルグッド、なんであろうと物事に対する人の気持ちの関係がわからなければ、どういう企画、デザイン、仕様をおこなえば良いかは判断できないはずだ。
適切な戦略は立てられないし、適切なディレクションもできない。制作物のレビューや実行した施策の良し悪しも評価できない。そう、そこから良いものは生まれようはない。

良いものが何かわからないから判断できない。良いものは何かを考えることができないのは、自分にとって良いものが何かも考えられないからだ。

それでは、良し悪しを判断する基準を自分自身でつくったり、その基準を共有する仲間やチームを形成することもできない。それでは仕事にならないことが多いのではないか。まあ、そうなった場合、判断できない本人も苦しいはずだ。

けれど、そのとき、自分で判断基準がつくれず苦しいからといって、自分の外に判断基準となるようなものを求める逃げをうちはじめたらそここらネガティブループに延々とはまり続けるだけだ。
どこまでいっても、どんなに外部的な判断基準に頼っても、良くはならない。
むしろ、悪くなる要因がたまる一方かもしれない。

まわりの物差しに頼ろうとしてはダメなのだ。どこを探しても十分なものなどないのだから。結局、判断が遅れたり、不十分で中途半端な判断になるだけだ。
外には参考になるものがあるだけで、最終的には判断基準は自分(たち)でつくるしかない。

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判断基準をつくる

そう。だからこそ、判断基準を組み立てる力が必要だ。
自分の好悪や善悪などの価値観を材料として、それと社会との関係やまわりの仲間の価値観なども鑑みつつ、判断基準を組み立てていく。

自分自身の感情とそれに相対する人や物事との関係を明確にすること。記述すること。
結局はそういう作業が日々行われていることが必要だ。

僕がブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論に惹かれるのもそのためだ。

例えば『社会的なものを組み直す』のなかでラトゥールはこう書いている。

下手なレポートは、そのためだけに書かれておらず、事例に固有に妥当するものではなく、特定の読者に対して特定のアクターの記述を行うものではない。下手なレポートは、標準的であり匿名的であり包括的である。そこでは、何も起こらない。それ以前に社会的なものとして組み立てられたものに関する決まり文句(クリシェ)が繰り返されだけだ。

そのためだけに書かれた記述。
ようするに、自分の外にある基準に頼らず、記述を通してこれまで書かれたことのない個別の記述を自分自身で紡ぐこと。

ラトゥールが上のように言うのも、既存の判断基準に照らし合わせて何かを説明しようとしても、それでは「何も起こらない」、何も発生しないからダメだということだ。
何かを起こそうとしたら、ちゃんと関係性の記述を自分の言葉で現実に即して行うことが必要だということだ。

だから、ラトゥールはこう言うのだ。

記述するということは、具体的な事態に注意することであり、目の前の状況に固有に妥当する報告を見出すことです。記述することが途方もなく労力を要することを、私自身いつも実感してきました。

この労力を費やしているかどうか。
目の前の状況に固有に妥当する「自分自身による」報告を日々見いだせるよう、アンテナをはり、分析を行い、仮説の組み立てを行なっているか。そういうことを日々の思考や行動に組み込めているか。

それができずに自分が何を好み、世界の物事にどう接して何をどう感じているかに無自覚であるなら、自分で何かを判断したりすることはできないだろう。

それで一番つらいのは結局は自分じゃないだろうか。
自分を喜ばせるにはどうしたらいいか、自分を満足させるためには何をすべきかがわからず、なにを行うかの判断ができずに、ずっと悶々として生き続けるしかないのだから。

そういう人は惰性に流された日常で満足するのではなく、本当に自分自身を喜ばせ、興奮させるものをちゃんと見つけて、そのために時間もお金も身体も費やすべきだ。


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Hiroki Tanahashi

棚橋弘季。人間の思考はどんなふうに作られているか?を問うことがライフワーク。とりわけヨーロッパ文化史に興味あり。中世後期から19世紀あたりまでを広く守備範囲に。渋谷のロフトワークという会社で働いてます。

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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