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自然を否定する動物

人間と自然との距離というものを考えると面白い。人間と獣と違いと言ってもいい。1つ前の「ルドン--秘密の花園」で話題にしたオディロン・ルドンのテーマもそれに近いものがある。

人間は「自然を否定する動物」だと、ジョルジュ・バタイユはいう。「普遍経済論の試み」の第2巻にあたる『エロティシズムの歴史』において。「人間は労働によって自然を否定し、これを破壊して人工的な世界に変える」とバタイユは続けている。

呪われた部分 有用性の限界』というのが「普遍経済論の試み」の第1巻だが、労働とは、この有用性に取り憑かれたものであり、バタイユはこう書いている。「有用性は獲得にかかわる--製品の増大か、製品を製造する手段の増大にかかわるのである。有用性は、非生産的な浪費に対立する」と。
この有用性のための活動である労働において、人間は自然を否定する。

浪費としての贈与

獲得に関わる労働に対比されるのは、浪費につながる贈与である。マルセル・モースが『贈与論』で描きだした贈与経済の世界である。

バタイユもその贈与のもつ意味をこんな風に書いている。

至高の王は巨富を所有しており、これを自らの民の偉大な栄誉のために、芸術と祝祭と戦争のために、支出しなければならなかった。気前よく富を浪費する必要があり、ときにはゲームに負けることも必要だった。こうした王の気前のよさは、すべての時代、すべての風土で、大衆が求めるものである。これは社会的な活動の意味を解読する鍵であり、これなしには、社会的な活動の意味を理解できないだろう。

浪費のために贈与される。
浪費としての贈与を行うということは、その時間において生産的な活動から離れるということである。

バタイユは、そのための財、浪費されるための財、生産を否定する財があったという。
例えば、シャンパンがそのひとつだ。

というのもそうした財は祝祭という性質をおびており、その財がその場にあるということだけでもう他と異なる時間を、つまりありふれたどうでもよい時間とはまったく異なった時間なのだということを提示するからである。そしてそもそもそういう財は、ある深い期待に応えるために、まさしく無際限になみなみとつがれ、溢れるべきであり、また当然溢れるはずだからである。

どうでも良い時間とは異なる、祝祭の時間。それは普段は禁止されている暴飲暴食が許される時間でもある。普段は禁止により理性の下に隠された、肉的な要望が露わになる時間。そして、もうひとつの肉的な欲である、性的な禁止も祝祭においては開放される。

雅量に基づく交換のうちには、身近な女を直接的に享受することにおいてよりももっと強烈な交流(コミュニカシオン)がある。より正確に言えば、祝祭性は運動の導入を -- すなわち自己の上に閉じこもった状態の否定を、前提としている。したがって貪欲さに最高の価値を置くことへの否認を前提として想定しているのだ。性的な感覚はそれ自体交流であり、運動なのであって、祝祭の性質を帯びている。性的な関係は本質的に交流であるから、それはまず最初から外へ出る運動を要請するのである。

この引用でもわかるように、性的な関係と祝祭、そして、贈与の意味するところは同じだということだ。
それは「交流(コミュニカシオン)」であり、「自己の上に閉じこもった状態の否定」である。

無制限になみなみとつがれる

バタイユは、クロード・レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で近親婚の禁止に関する研究成果を発表しながら、何故、近親婚が禁止されていたのかを明確に説明できなかったところを、ここまで見てきたような贈与=「自己の上に閉じこもった状態の否定」という関係から、次のように説明する。

シャンパンのイメージをもう一度とりあげよう。(中略)そうするとレヴィ=ストロースの学説の輪郭は次のように見えてくる。つまり自分の娘を妻とする父、自分の姉妹と結婚する兄弟は、いわばシャンパンを所有している者なのだが、けっして友達を招待せず、自分ひとりで酒蔵を飲み干してしまう者と同様なのである。父は自分の娘がそうである富を、また兄弟は自分の姉妹がそうである富を儀式的な交換の回路へと参入させなければならない。つまり身内の女を贈り物として与えなければならない。

最も大事であり、放っておけば自分のものであるものだからこそ、交換の回路に参入させなくてはならない。そうして開かれた回路に参入することで、自身やその家族もまた同様の恩恵を他から得るチャンスを保証される。
有用性=使えるにこだわれば、物にとらわれ吝嗇となる。自然の営みの中に留まろうとすれば、生死のサイクルの中にすべてを投じることが必要だ。生産という人間のみの経済原理にとどまるか、生死を含む自然とのつながりも保った経済原理を志向するか。

だからこそ、それはなみなみと無制限に、溢れることを前提につがれる必要がある。次なる生成を願って、浪費という形で自分たちの外に財を開放する必要がある。

では、この祝祭における食欲や性欲などの肉なるものの開放は、人間の獣への回帰なのだろうか?

意義を帯びた光に満ちた世界から排除されるものは?

バタイユはそうではないという。
回帰した禁止の対象は、元の自然としてではなく、ある意味、近づくことができない聖なるものとして人間の目の前に現れるからだ。その意味で、母なる自然と父なる神は同じではないのだろう。

バタイユは「近親婚の禁止とは、人間になりつつある動物が自己の獣的な条件に対し抱いた嘔吐感の結果のひとつである」という。それは獣的なものの排除の徹底だろう。だから、祝祭がどんなに野蛮で欲望に満ちた獣的なものに感じられたとしても、それは聖なるものを知る人間の、いまは見失われたもうひとつの文化のあり方だったはずである。

だからこそ、バタイユはいう。

動物的なものの取るさまざまな形態は、人間性という意義を帯びた、光に満ちた世界からは排除された。

のだ、と。
祝祭的なものは、むしろ、こうした獣的なものの排除を人間が忘れないための役割も有していたのではないだろうか?
その役割をもった機能が社会から失われたからこそ、広がる闇が現代にはある気がする。

失われた祝祭が最後に残っていた時代を生きたのがシェイクスピアら、ルネサンス人だが、そのシェイクスピアの描く牧歌劇には、実はさまざまな形で自然と人間の関係が描かれていて面白い。
次は、このあたりを書いてみたい。

#祝祭 #贈与 #経済 #自然 #人間

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