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くよくよしない

くよくよしないことが大事だ。

自分の精神衛生上、大事だというだけでなく、より「仕事ができる」ようになり社会的な役割を担えるようになり社会との関係がスムーズになる、という意味において。

つまり、社会との関係において自分に関する何ごとをも考えることがデフォルトになったとき、自然とくよくよなんてしなくなる

社会に目を向け自分を視界から消す

社会のなかに巻き込まれてる自分を認識すること。
社会で現実的に起こっていることをちゃんと認識するようになり、意識の中での「自分」が占める割合がほとんどなくなった状態になること。
いうなれば、利他的になるということにちょっと近い状態にちゃんと自分の意識や姿勢をシフトすること。

その状態では、自分が何かを失敗したり、できなかったりといった小さな出来事は取り組んでいる課題全体に比べれば問題のごく一部でしかなく、改善を試み、そのために必要な手立てをとる必要なことではあっても、くよくよなんて何の役にも立たないことをする必要なんて生まれようがない。くよくよすることに時間を費やす余裕があるなら、ちゃんと現実的に失敗を取り戻すための解を見つけることに頭も時間も費やす必要性の方がはるかに圧倒的に高い。
そこでくよくよするのだとしたら、それは周囲の要請とは切り離された本人の趣味の問題で、そこにはなんら周囲の環境から来る要因はない。

周囲はひとつの失敗に対して、結局は「仕方ない」「次がんばれよ」というスタンスしか実質的に取りようがない。
もちろん、失敗が判明した時に多少のいざこざは付き物だ。それが感情的な言葉を伴うことはある。
しかし、それが後々にも引きずるようなことになるとすれば、失敗したことはきっかけにすぎず、本当の問題は違うところにある。その本当の問題に現実的にアクセスしようとしない限り、失敗を咎められたという妄想の展開が膨らむだけ。くよくよするということはそういう非現実的な行為だ。

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「くよくよする」の対義語

現実的なものにフォーカスすること。
社会をどうするか?ということにフォーカスし、あくまで自分はそのなかの一員だと風に認識して日々を過ごしていると、普通にくよくよしなきゃいけない必要性がそもそもなくなる。
社会というと大げさすぎるかもしれないので、単に自分が生きていく上でのコミュニティだとか、生活環境を考えるといいのだと思う。

その自分にとっての小さな現実社会でスムーズに生きることを現実的に考え、同時に具体的に行動していれば、自分のことをくよくよ考えるなんてことに、そもそもならない。

だから「くよくよする」の対義語は、「現実的に思考する」だ(うまくひとつの後にはならないけど)。
現実的に思考することを避け、妄想に逃げ込もうとするからくよくよしてしまう。
そもそもにおいて現実逃避的なのだ。

現実をおろそかにしない

ようするに、くよくよするというのは、現実で起こることに自分を適応させられないという、意味不明なことに起因する。
自分の妄想が強すぎて、現にある現実に生きることができない状態なのだ。
自分の妄想のなかの陰謀論的なストーリー展開に頭がいっぱいで、現実をおろそかにして、何もしようとしなくなる。
(余談だが、こういうところから精神と物質は異なるなどという二元論が生じてしまうのだろう。非現実的すぎる)。

くよくよしなければ、現実的に行動できる。
だが、くよくよしてる目の前の自分の上すら片付けられない。お腹が空いててもご飯も食べられない。やればよい仕事に手をつけず、かえって後で怒られたり。

くよくよしてる状態は、とことん現実が見えなくさせてしまうし、現実的な行動に意識や思考を費やすことを避けさせてしまう。
それは現実的に行動することをやらない言い訳のようだ。

くよくよしない人

逆に、くよくよしない人は、そもそも失敗しないようにちゃんと計画を立てるのを怠らないし、失敗しそうなことを早めに感知してしかるべき人に相談したりして対処できる。

それは自分中心に考えず、いま自分が携わってる社会的な事柄のなかで自分がすべきことを具体的、現実的にどうやるかに集中できているからだ。自分はそのシナリオのなかの一部しかなく、中心的な立場ではないことを自覚してる。それは利他的な姿勢だともいえる。

そういう姿勢だから普段から、そもそも自分のスキルアップに余念がないし、他人の仕事を参考にして、自分の仕事の仕方に反映しようと、常に勉強の姿勢を保つことができる。ちゃんと現実に即して、自分に何が足りないかを考え、その不足を補う方法を考えることができる。
そんな風に、自分が行う現実的な仕事そのものにフォーカスしていて、自分のメンタルなどはそんなに意識していない。

それは自分にやさしくないというのではない。むしろ、本当に自分にやさしくするためには、仕事をするときにリアルタイムで自分のメンタルを労わるよりも、事前に自分の仕事を計画したり準備したりすることを怠らないことがはるかに自分をいたわることにつながるとわかっているからだ。

考えないで突入にしてうまくいくことなどほとんどない。痛い目にあうのがわかって無謀な試みをしているようなものだ。
だとしたら、事前に準備したうえで事にあたったほうが痛い目にあわずにすむ。くよくよするきっかけそのものが事前に取り除かれている
さらに、それがわかっていれば、失敗しても、そのことでくよくよするより、それを糧に次にどうすればよいかという次の準備にちゃんと意識を集中して、現実的な思考ができるのだ。

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自分が主人公の現実社会などない

くよくよしてしまう人は、まったくその逆の思考行動をとる。

くよくよしてるとき、人は自分の夢物語に閉じこもった状態で思考を展開してしまう。それは現実で起こっていることとは無関係だ。自分を夢の主人公として、まわりの人たちやモノや状況がすべて自分を陥れようとする敵のように見立てて物語を綴ろうとする。

当たり前だが、現実社会でそんな陰謀論的なことが展開することはほとんどない。自分が主人公であるような形で存在する社会などない

あるとしたら、それは単に「くよくよする」者同士のでっちあげの共同創作物で、単に妄想の芝居を現実に日常でも演じているにすぎない。
何故、そんなに自分たちや他人をキャラクター的なものにしたがるのだろうか。それを「人間関係」なんて呼ぶのは、あまりに妄想がすぎる。

自分たちが主人公となって展開する社会などない。そんな当たり前のルールさえ、「くよくよする」というアナーキーな思考姿勢は問答無用に打ち破る。文字通りのならず者だ。

しかも、本人たちには自分たちが、アナーキーなならず者であるという認識がないから困ったものだ。
まさに非現実的な世界に閉じこもってしまっていることがわかる。

自分が主人公になって展開する物語の中に生きるなんて、自分に対する過剰評価が過ぎる。そう、思えるのはあまりに世間知らずだからだろう。社会はそんなにやさしくないもないし、そもそもやさしいかどうかなんて基準が成り立つような人間中心主義的な存在ではない。

西洋的な個人を主人公として語る物語がいまの社会にあっていないのではないか。
東洋的なもっと大きな系のなかで自然も含めた環境のなかで、個々人を描くような物語の描き方が重要になってきているのだろう。

そういう無自覚が環境問題などの一因であることは疑うべくもない。くよくよして自分の机の上も片付けられなくなった妄想世界の住人たちが平気で現実社会にゴミを撒き散らす。社会と自然という一体となった世界のしくみをちゃんと理解してほしいものだ。
たとえば、アクターネットワーク理論に興味をもつなどして。

本当の意味で自分にやさしく

くよくよする人はそういう意味で社会や環境へのやさしさに欠けるが、もっとそもそもを言えば、くよくよする人は何より自分自身にやさしくない

現実的に良い状態を作ろうと、その具体的な策を考えたり、そのために必要な情報や知識を集めたりすることを、自分にあきらめさせてしまうからだ。
くよくよしない人が無謀な飛び込みを避けるのとは逆で、無謀な飛び込みばかりの毎日に自分自身を飛び込ませてしまうことをやめようとしない。

何故良くなろうとすることから自分を遠ざけようとするのか。
根本的なところに、ちゃんと現実的に良くするためにはどうすれば良いかを考えることへの怠惰がある。怠惰すぎて自分にやさしくすることさえできない。自分を変えて、そのことで自分自身も、社会も良くしていこうという、変化への意志があまりに弱い。

だが、変わらない生命など、生きていないのと同じであることは『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』の著者で、世界的な物理学者のエイドリアン・ベジャンがこう書いて示してくれていたではないか。

生きるべきか死ぬべきか―― それは問題ですらない。生命は自然界における普遍的傾向だからだ。生命は自由を伴う物理的な動きだ。動くもの、流れるもの、突き進むものはすべて、配置や道筋やリズムを変えることによって、しだいに動きやすくなる傾向と、動き続ける傾向を示す。進化するこの流動構成とその終焉(死)こそが自然であり、生物・無生物の2領域を網羅する。

変わらなければ終焉に向かうしかない。何故、そんな単純なことが自覚できないのか?ということに尽きる。

くよくよしがちな人は、失敗すること、注意されることを過剰に避けたがる。
失敗やその兆候を隠そうとするし、そのためにそもそものプロセスを他人に共有しない。
ここでも自分が主人公すぎるが、それは最初から自分を悲劇の主人公に見立てすぎていて、はたからみれば、自分へのやさしさに欠ける。

大きな全体のなかの存在であることを自覚する

本当に、失敗したくなければ、ちゃんと計画したり、自分がやろうとしていることをオープンにして、他人が助けやすくしたり相談に乗ってもらいやすくすべきだ。

そこで無意味なプライドゆえに「自分ひとりでできる」という、これまた間違ったヒーロー仕立てがその仕事全体のリスクとなってしまう。
ひとつの失敗の意味が大きくなってしまうのは、そうした間違った設定ゆえだ。

何故、そんな無意味な理由で、自分も、仕事をいっしょに進めようとしている仲間も、危険な方向へと導いてしまうのか。
あまりにやさしさに欠けるし、思慮に欠ける
端的に、まわりが、社会の動向が、そして、本当の現実の自分自身さえもが見えていない状態だろう。

ふたたび、ベジャンのこんな言葉を引いておけば、すこしは自分をまわりの中に置いて考えること、社会と自分を一体となった動きのなかで考え、自分にばかりフォーカスせずに現実の世界にもっと目を向けて行動しなくてはいけない理由が伝わるだろうか。

構成(デザイン)は自然に発生する。「構成(organization)」という言葉は、デザイン(器官[organ])が生きているという事実を物語る。内部にも周囲にも流れがあり、そのすべてが、より大きな全体に所属しているとともに、世界の中で形を変え、進化し、成長し、縮小し、動き続ける。協働は、もっと楽に動きたいという各自の利己的な衝動に由来するデザインだ。

こうした世界のなかに「くよくよする」なんてものが入る余地は本当は存在しないことに気づくだろうか?

ちゃんと世界のこと、社会のこと、職場のこと、ひとつの仕事のことを理解し続けようとすることを怠らずに、世界のなか、社会のなか、職場のなか、ひとつの仕事のなかで自分のポジション・役割をつくること。
そして、それはいったんつくって終わりではないし、その維持に固執するようなものではなく、世界が、社会が、職場が、ひとつの仕事それぞれが常に流動的で変化しつづけるものであることも理解し、その変化をちゃんと嗅ぎ取ったうえで、自分もそれにあわせてどう変化するかを考え行動できるようにならないといけない。

それは結構、忙しくて大変だ。
そんな状況のどこに「くよくよする」余裕なんてあるだろう?
変わり続けることを避けてはいけない、諦めてはいけない。
ちゃんと世界に、社会に、職場に、ひとつの仕事に、そして、何より自分自身の人生に参加してほしい。し続けてほしい。

さて、では、まず何をする?


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