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持続可能な社会のためのシステム的思考

いまの時代、物事をシステムとして捉え、思考する力が何より必要だと、強く感じる。

いま読んでいるエイドリアン・ベジャンの『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』は、そのタイトルにあるとおり、世の中のさまざまなことを「流れ」に着目する。「流れ」という観点で考えることで、生物に限らず、あらゆる進化が世の中の流れや動きをより良くするためのデザイン変更であることを提示する。

力の生成と消費と動きは、進化の統一的見解を提示する。この見解によって、動物のデザインと動き、河川流域、乱流、運動競技、テクノロジー、グローバルなデザインなど、進化の現象が科学的に観察され、記録され、研究されているすべての領域の説明がつく。進化とは、時の経過とともに起こるデザインの修正であり、生物の地表と無生地表の全体へそうした変化が拡がることを意味する。

川の流れはより効率よく水が流れるようにその流域のデザインを変えるし、陸上短距離の選手は歴史的により速く走れるようにより体型が大きくなる方向で変化していて、それは飛行機が速くより多くの人を乗せて飛べるようになるためのデザイン変更と基本的に同じだという。
経済的な流れを良くするために都市も企業も巨大化する。
インターネットが情報の流れをより速く、より遠くに届くようにした。

ただし、デザイン変更とはいえ、単純に新しい大きなものが、古い小さなものに取って代わるわけではない。
それらは共存して階層的で複雑な系を成す。

今日地球は、少数の大きな動物と多数の小さな動物が織り成す網で覆われている。新しいものは数が少なく、大きい。古いものは数が多く、小さい。新しいものは、古いものに取って代わりはしない。古いものに加わるのだ。これが、いたるところで歴然としている「複雑性」の織物だ。

しかし、この系=システムを理解する力、理解しようという意識が低いために、今日の持続可能性に関する危機的な状況が起きてしまっている。その上、危機的な状況なのに何も変わろうと変えようとしない大量の人たちが溢れかえる状況になってしまっている。

気候変動が難民をつくる

昨日、この2つの記事をたまたま同時に見つけて、軽く衝撃を受けた。

ともに気候変動の影響から移住を余儀なくされる人々が増えているという問題を扱った記事だ。前者はそれを予測したりすることで解決の策を探ろうとしているし、後者はアパレルという観点から問題の解決を探る。だが、いずれもそれぞれ困難の壁にぶち当たってはいる。

気候変動の問題はそれなりに理解していたつもりでいたが、それによって難民が生まれていることはあまり意識できていなかった。
2つの方の記事中に、

「ここ数年で、ファッションと気候変動の関係に注目するブランドは増えました。でも、この連鎖の端っこにある『気候変動によって起こる人の移動』は無視されてしまうことがほとんどです」

とあるが、僕もまったく同じだった。

「2008年以来、洪水や嵐などの異常気象によって避難を余儀なくされた人々は、毎年平均2,150万人にのぼる」のだそうだ。
そうした人々は故郷を追われ、職や住む場所を失う。

危機に対する意識、自分ごと感の希薄さ

でも、この気候変動による移住の問題は、遠い外国の問題ではない。
すぐ近くの国内でも起こっている問題だと2つの記事を読みながらはたと気づいた。それは例えば、昨年の西日本豪雨の影響でいまも仮設住宅での暮らしを余儀なくされている人たちがいるのと基本的に同じだ。

気候変動による大きな影響が現に身近に起きてしまっているのに、いまひとつ日本では、個々人のレベルでそうしたことに対する問題意識や、自分ごととして何かできることはないかという感覚が弱いように感じる。

例えば、スーパーなどでいまだに普通にレジ袋が配られるのがデフォルトだったり、野菜が不必要にビニールやプラスチックで個別包装されていたり。タイトル画像のように、ヨーロッパではミニトマトが枝についたまま売られているが、日本だとプラスチックのケースに入って売られている。当然、ヨーロッパではレジ袋は買わないともらえず、自分で袋をもって買いに行くのがもう何年も前からデフォルトになっている。

危機に対する意識の問題で、僕自身、ちょうど1年前くらいからこの気候変動や環境負荷の問題などを知識として、意識的に調べたことなどもあって、それ以降、レジ袋は基本的にもらわなくなったし、ペットボトルの飲み物も極力買わないようにしているし、そもそもコンビニで何かを買うということ自体避けるようになった(コンビニで買うものでゴミが出ないものはほぼないから)。

そんな自分の経験からすると、行動できるかどうかは、「これはもうやばいな」と感じられる知識や理解をちゃんと持てているかどうかということなのだろう、という気がする。
ようするに、ここでも知識を取得する意欲や実践の問題だし、理解力の問題である。自分のどういう日々の行動がどんな風に世界に影響を与え、それが結局、自分自身の生活にも悪影響を及ぼすという、そういうエコシステムに関する興味や関心がもてるかどうかなのだと思う。

システム的思考とそれを可能にするシステムについての知識や理解があるかないかが問題だ。

システムの流れのなかで問題を捉える

その観点では、先の記事で紹介されている25歳の若手デザイナー、アンジェラ・ルナが気候変動の「連鎖の端っこにある『気候変動によって起こる人の移動』は無視されてしまう」という知識からくる問題意識によって、2016年に戦争難民支援のためにアディフ(ADIFF)というブランドを立ち上げ、「環境難民を含めたあらゆる難民・移民の支援と居場所づくりに挑戦している」ことから学ぶべきことはとてつもなく大きい。

問題が分かれば、行動はしやくなる。
行動が成功するかは別として動き出してみることはできる。
僕自身、「やばい」と思って以降、ペットボトルの飲料を買わなくなったということ日常生活における行動以外でも、仕事において自分が関わるプロジェクトにおいては「それをすることは持続可能性の向上にどうつながるか?」という観点でプロジェクトを組み立てるようになった。
問題が分かれば、行動の方向性は考えやすくなるのだ。

ルナは気候変動の影響で故郷を失った人々のために服を作るだけではない。

ルナは、アテネに小さな工房をオープンした。働いているのは現在3人。全員アフガニスタンからギリシャへと逃れてきた人々で、そのうち2人は故郷で鞄職人や仕立屋として働いていた職人たちだ。

どのくらいの人が知っているかわからないが、アパレル業界は環境負荷への影響の度合いがエネルギー業界に次いで大きい業界といわれている。

以下の記事にもあるように、CO2の排出量は大きく、増加傾向にあり、「2015年比で60%以上増加し、2030年には約20億8千万トンになると予測されている。これは一年間に2億3千万台の乗用車から排出されるCO2の量にほぼ等しい」し、農薬による土壌汚染に関しても「服の素材として約3割を占める綿は世界の農地の3%を占めているがこのわずかな土地で全殺虫剤の16%」という具合。

ほかにもアパレル業界の服作りの過程においては、染めの段階で大量の水が汚染されたり、マイクロプラスチックの問題もある。過剰生産による廃棄の問題もあるし、労働力の安い国で過酷な労働を強いていたことが問題になったこともまだ記憶に新しいのではないだろうか。

こうしたアパレル業界全体の流れのなかに、ルナが感じる問題はある。
流れのなかで問題を捉えることで、その中で自分が何ができるかを考えられるようになる。まずは問題をとらえようとする意思や行動がなくてははじまらない。

H&Mのサステナブル・ファッションへの取り組み

こうした状況に取り組んでいるのは、若いルナばかりではなく、大手のアパレル企業もとうぜん取り組んでいる。

有名なところでは、H&Mの取り組みなどは素晴らしいと思う。

H&Mが香港繊維アパレル研究開発センター(HKRITA)と取り組んでいる、コットンとポリエステルの混紡布地の理採掘技術の開発などは、アパレル業界のサーキュレーション・エコノミー(循環型経済)の実現に向けての1つの大きな取り組みだ。

香港特別行政区環境保護署によると、香港だけでも2016年に12万5,195トンの布地廃棄物があり、そのリサイクル率はわずか3.4%(4,200トン)。ほとんどの古着が埋立地行きとなっている。これはアパレル市場で最も需要のある、コットンとポリエステルの混紡繊維のリサイクル技術が長年追いついていなかったのが理由だ。

ただのゴミになるのではなく、再利用が可能になることですくなくとも資源の無駄は減る。
むずかしいのは、そのリサイクルの過程でCO2が増えたり化学薬品によって水質汚染が進んでしまうこともあるので、システム変更はそう単純ではないということもあるが、「流れを良くする」取り組みは進化につながることは間違いない。

サステナブルなシステムへのデザイン変更とそれへの意識**

H&Mの取り組みでは、こうした再生技術の開発以外にも、そもそも使用するコットンを2020年までオーガニックコットン(土壌汚染をしない栽培方法によるコットン)に切り替えたり、2030年までに再生可能な素材のみに切り替える目標を立てて、その実現がすでにそれぞれ、

すでに全素材のうち57%がサステイナブルまたはリサイクル素材になっています。“2020年までに100%のコットンをリサイクルまたはサステイナブル・コットンに切り替える”という目標も掲げているのですが、これについては現時点ですでに95%を達成しています。

と以下の記事のインタビューで明らかにされていて興味深い。

この記事を読んでいて、感じたことがもう1つある。
記者による「近年、消費者のサステイナビリティーへの意識も高まっているように感じるが、この変化をどのように受け止めているか?」という問いに対する回答のなかにそれはある。

まさに世の中のサステイナビリティーへの意識は高まっています。特に若い世代の間で浸透しているようで、彼らは洋服がどこでどのように作られたかに高い関心を持っているのです。私がH&Mに入社した1980年代を振り返ってみると本当に大きな変化ですが、私たちは正しい方向に進んでいると思います。

サステナブルなことへの意識の高まり。
それが日本とヨーロッパでは大きな違いがあるのではないか?とこういう記事を読んでもどうしても感じてしまう。
中学生くらいになると日本でもそうした意識があるのだと先日伺ったりもしたが、それ以上の年代にあまりそうした意識を感じない。

その意識の差の根底に、どうしても環境など、様々な問題をシステムの問題として考えるための知識の不足や、そうした思考の仕方が習得できていないことがあるように思う。
けれど、その有無は、これからの自分たち自身の生活や生命の持続可能性そのものに関わってくる問題だ。

ベジャンはこう書いている。

コンストラクタル法則は生命を、生物界と無生物界の両方の領域で自由に進化する動きと定義している。流れを促進し、動きへのより良いアクセスを提供するような、自由に変化する流れの配置とリズムは生きている。動きが止まると生命は終わる。変化し、より良いアクセスを見つける自由を動きが持たないときには、生命は終わる。

より良いアクセスを見つけ、流れをこの先も持続できなくては、「生命は終わる」。ものは自然に動くことはない。動くためには必ずエネルギーの消費がある。このくらいのことなら物理学者のベジャンに指摘されなくてもわかる。だが、わかっているはずなのに、これだけ動きが大量に発生している世の中で、同時にその動きを無駄に消費してしまっていることをこんなにも気にしないのは何故だろう? それはまぎれもなくエネルギーの浪費だ。石油や電気だけではなく、僕らが動くための食物や水なども含めて。流れに無駄があれば、エネルギーが足りなくなり、流れは起こらなくなる。
僕らは今後の持続可能性のために、流れを効率化するより良いシステムデザイン変更を急ピッチに進めなくてはならないはずだ。

こうしたことにもっと多くの人が気づき、考えられるようになるにはどうしたらようのだろうか? そんなことを最近、よく考えてしまうのだ。


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