キュレーションと創造

いまの時代に必要な創造的なビジネススキルの1つがキュレーションする能力なのではないかと最近思っている。

さまざまな人々のさまざまな創造的な成果や活動を集合させ、それらを組み合わせたものを見せたり、語ったりする。そこから個々の要素それぞれからだけでは生まれない、ストーリーやメッセージを生みだすキュレーション的な創造。
そうした創造的行為が、このさまざまな問題が幾重にも複雑に重なりあった時代における問題解決やムーブメントの創出には必要なのではないかと思うからだ。共創なんて言葉がもてはやされているのだから、異なる分野の人が集った場で個々に異なる能力をうまく引きだすファシリテーションを行いつつ、それらの結合から新たな価値を編み上げていくようなキュレーションが大事になるのはある意味当然ではないか。

単に集めて並べただけでは何も起こらない

キュレーションという言葉は、そもそも博物館や美術館、図書館などのような資料や作品が蓄積された施設において、それらを用いて価値のある展示などを企画したりする役割の人=キュレーターの仕事を指す。
複雑に絡み合った問題を学際的な共同によって解決することが求められるような現在の世の中では、そうしたキュレーターたち同様の編集的表現を生みだす力が、ありとあらゆる領域で必要になっているのではないだろうか。

共創だとか、オープンイノベーションだとか言って、ただ異なる領域の人やアセット、リソースを集めるだけ集めて、それで何かが生まれると考えるほど、能天気な考えもないだろう。
そんなことが起こるなら、あらゆる人通りの多い場所で創造はもっと日常的に起きているはずだ。
異質な人たちが集まる場、話す機会さえ作れば、そこから新たな価値あるものが生まれると考えてるとしたら、あまりに創造というものの仕組みがわかっていなさすぎる。

それはキュレーションという言葉の元の居場所である、ミュージアムでも同じだ。アート作品や貴重な資料などをただ無闇に配置してみせても、そこに意味は生じない。
意味あるよう選んで並び順や見せ方も考えるから、そこにメッセージやストーリーや意味が見えるようになる。その選択やレイアウトなどにキュレーターの創造性が求められる。

アルルの美術館で

その意味で、国内外問わず、これまでそれなりにたくさんの美術館の企画展示、常設展示を観てきたなかで、僕のなかで、文句なしに感動ナンバーワンだったのは、2015年の春にフランス・アルルの街にあるレアチュー美術館の常設展を観たときの体験だ。

18世紀から19世紀にかけて新古典主義の画家ジャック・レアチューの邸宅兼アトリエだった、ルネサンス様式の建物を転用したレアチュー美術館の所蔵品は、レアチュー自身の作品をはじめ、彼がコレクションした古代の彫刻なども含む美術品、アルル周辺のゆかりのある芸術家の作品、ピカソが寄贈した彼の作品、同地域出身のファッションデザイナーのクリスチャン・ラクロアのデザイン画などから構成されている。

新古典主義の画家らしく、古代の彫刻や什器などの装飾として描かれた絵画から、古典的な人体のプロポーションを研究していたであろうレアチューのその修練の様子が分かるスケッチや対象となった古代の彫刻の複製などの展示からはじまる、その常設展は、そこから制作年代にはさほどこだわることなく、あるテーマの元に展開されていく。

そのテーマはおそらく言葉にすれば、「アート(人間的創作活動)における人体の扱いについて」となるのではないだろうか。

現代アートの身体を痛めつける/治療を施そうとする様を無機質な映像であらわしたビデオ作品とともに、裕福な家に置かれていたであろう古い豪華な衣装ダンスやそうしたタンスも持ち得たであろう貴婦人を描いた絵が連続して展示された流れからは身体という物体性とそれを装飾したり所有したりといった身体の商品性が匂い漂ってきた。

さらに、その流れのなかで地元アルルの画家で、レアチューの叔父にあたるアントワーヌ・ラスパルが描いた仕立て屋で働く人々の作品、そして、ラクロアのファッション画が続くと、描かれる対象である身体が同時に衣服を使って彩るものであることが明らかになる。

このあとにピカソのキュビスム的な彫刻やら素描が身体のさまざまな見え方を提示したり、ジャコメッティの彫刻のあまりに贅肉を削ぎ落とした骨以下の細さの身体が並べば、アートという形でのある種の人体解剖やら人体商品化などの実験行為が長い歴史のなかでさまざまな形で繰り返されてきたことに嫌でも気づかされる。

ロージ・ブライドッティが『ポストヒューマン』で次のように描きだす「ヒューマニズム」につながる、人間の見方が美術史のなかでも展開されてきたことがさまざまな時代のさまざまな作品をうまく並べてみせることで描きだされていた。

ヒューマニズムにおける人間なるものは、ひとつの理想でも、客観的な統計上の平均や中庸の立場でもない。それが詳らかにしているのはむしろ、識別可能性--すなわち〈同一性〉--についてのある体系化された基準であり、それによって他のすべてのものが査定され統御され、所定の社会的な場所に割り当てられるということである。人間なるものはひとつの規範的な約束事である。そのこと自体は悪いことではないが、ただそれが人間を高度に統御的なものにし、またそれゆえに排除や差別の実践に加担するものにしている。人間的規範は、正常性、常態性、規範性を意味するのである。それは人間であることのうちのあるひとつの特殊な存在様式を一般化された基準へと転移させることで機能し、その基準が人間なるものとしての超越的な諸価値を獲得するのだ。

アートの歴史がある意味、そうした人間の身体というものの価値を弄ぶ行為の軌跡だということは、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な『ウィトルウィウス的な人体図』を思いだすまでもなく、非常に小気味好い感じで示された展示だった。

キュレーションの力

とまあ、4年くらい前の感動をあらためて伝えようとするのは何ともむずかしいのは書いてみて思ったが、レアチュー美術館の展示がすごいと思ったのは、いま上で当たり前のように書いた「アートの歴史は人間の身体というものを、ある種の人体解剖やら人体商品化などの実験行為の形で弄んだ歴史」といった、それまでは考えたこともなかったことを、フランス語のキャプションしかなく、文字による情報はほぼ得られないなかで、作品展示だけを観て、しっかりと明確に感じさせてくれたことだ。
具体的にどんな作品がどのような流れで展示されていたかまではもはや思いだせないのだけど、作品を順に観ながら、そのことに気づいて「なるほど」と思いつつ、次の部屋で、そう来るか!という展開を連ねられて、ほぼ最期の展示室まで感動し続けたことは覚えている。

今回、キュレーションについて書いてみようと思ったとき、まっさきに思いだしたのがこのレアチュー美術館での体験である。
美術作品そのものはもちろん、それ自体でそれぞれ価値があるのだろうけど、その価値以上のアートというものの歴史的な価値を新たに物語るには、そこで観た展示のようなキュレーションがいる。

そして、いまこの自体、新たな社会的な価値の創造が求められるとき、このキュレーションの編集的な創造力ほど、必要なものはないと思う。
新しいものは無からは生まれようがない。基本的には多くの発明は既存の知などのアーカイブをいままでにない別の角度からみてリフレーミングしながら編集的に組み合わせて行う創造だ。当然その作業にはさまざまな領域横断的な知が必要だし、その知を自在に操れるくらい、それぞれの知に精通できることも大事だろう。
だから、どうしたって、これからの創造には、そうしたキュレーターのような研究者めいた姿勢は求められてくる。そういう普段から扱える知の素材を集めて、ある程度は自分のものにしていくような日々の活動の積み重ねがあって、共創の場において、何か新しいものを生みだすためのファシリテーションも可能になる。

もちろん、そもそも、そういう役割が自分にもあるということ、それが創造に関わる人の仕事だということを自覚していることが大前提ではあるのだけど。

創造の場のオーナーとして

ディレクターという役割で共創という創造の場のオーナー的なポジションを担うことが多い以上、ここまで書いたキュレーションとして共創の参加者たちの活動をファシリテーションし、そこから生まれるものの在りようをディレクションするのは当然の役目だと思う。

逆に、ある程度、力のあるクリエイターやら、知見をもった有識者を揃えて、そこで会話をさせれば、自分が特に何もしなくても何か創造的な行為がなされるとでも考えていたら、創造の場のオーナーであるディレクターとしては失格だ。
本当にそんなことで創造が生じるのだとしたら、それこそ、ディレクターも、キュレーターも必要ない。

しかし、実際には、そんなことはあり得ない。
だから、ディレクターなりキュレーターなりの仕事が必要になる。
それなのに、そこで自分こそが創造を司る役割を担っていることを自覚して、そのための工夫を考え動こうとしていないのだとしたら、それは単なる役割の放棄でしかない。

そう。そこで必要なのは、いかにすれば異なる分野の人々の邂逅から新たなものの創造が生じるかを考える工夫である。
参加者のもついかなる知と知をどのようなタイミングで出会わせると創発的な連鎖が生じるのか? その流れをうまく作り出すには、会話におけるキーワードをどのように拾い上げ、異なるどのキーワードにどのような形で接続されてみれば良いのか?と考えて、ファシリテーションするといった工夫があってこそ、共創の場から新たな価値の芽がでる。

もし、そういう工夫が自分たちに常に必要とされていることに気づいていないなら、共創の場のオーナーからは降りた方が良いだろう。
もし、自分がオーナーであるのに、いまはじめてそれに気づいたのであれば、いまからでも遅くはない、とにかく知と知をつなげるための工夫に全力を注ぐべきだ。

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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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