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メタ世界

日常語、常識的な知、安心感のある見覚えしかない環境や新たに記憶する必要もないルーティンな出来事。
そうした要素によって作られた日常の生活の向こうには、また別の世界がある。

別の世界、といっても、死後の世界とかそういった類のものではない。
ここでいう「別の世界」とは、日常的な知覚が精神安定のためにあえて排除している意味や価値の不確かなものの世界のことだ。つまり、本来的にはいまここにある同じ世界である。
もの自体はいつも同じように存在していたし、いまだ存在しないものの気配でさえ、すでに存在するものが今後織り成すであろう現象でしかない。そういう意味では、すこしもオカルト的な部分はないし、2つの世界を物理的に分ける仕切りはない。

けれど、それでも別の世界だというのは、日常世界に住む僕らはその世界のことをあえて見過ごし、考えないようにしているからだ。日常的なことば、常識的な考え方や価値観がバイアスとなって「別の世界」の様相を僕らの日常から隠してしまう。

だが、それでも別の世界の気配は、徴候や予感、索引や余韻という形で、僕らの日常世界に忍びこむことは、そんなに稀なことではない。恋の予感や祭りの余韻は日常世界と別の世界をつなぐ結節点だ。
その出入り口を通って、別世界に行くかどうかは、人それぞれ。だが、行く人のほうが圧倒的に少ないのは確かだろう。

ひとつ前のnote「徴候と予感」でも紹介した中井久夫さんの『徴候・記憶・外傷』では、ここで別世界と呼んだ世界をメタ世界と呼んでいる。

そのメタ世界には2種類ある。
それぞれ微分的メタ世界、積分的メタ世界と名付けられている。

徴候や予感を通じた微かな変化への敏感な対応から開ける微分的なメタ世界。
そして、索引や余韻という過去の蓄積を受け止めることから開ける積分的メタ世界。

その間にあるのが、そうした多感な感覚を捨てたことによって広がる、適度に穏やかで、適度な刺激をもたらす日常世界だ。

そこが穏やかな刺激がある世界なのは、人間が感じる刺激量と感覚量の関係に対数的関係(10倍の刺激を2倍の感覚値の変化と感じる関係性)を見いだしウェーバー‐フェヒナーの法則が成り立つからで、それゆえ、中井さんはこの日常世界を比例世界と呼んでいる。

いや、記号論が妥当するのは、この比例回路的認知システムの世界、つづめていえば「比例世界」だけというのはいいすぎだけれども、それが主張音である場合ではないかということをいいたいだけだ。これが「日常世界」なんだ。

この比例世界は、徴候や予感によって微分的メタ世界とつながり、索引や余韻を通じて積分的メタ世界につながっている。徴候や予感、索引や余韻は、メタ世界から日常世界ににじみ出てくる、非記号的な刺激である。

あらためて、この微分的なものと、積分的なものとは何かということを、中井さんの言葉をつうじてみてみると、それぞれ、このようになる。

微分回路は、認知手段としては、時進み回路というくらい、先取りなんだ。航空機の速度計がいい例なんだが、すこし前の値を予測によって出す。重要なことは、先行経験にはほとんど依存しないということだ。ただ、このタイプの認知には固有の限界がある。もしリアルタイムにおける絶対確実な予測を求めれば、まったく答えが出ない。そして、これに近づこうとする時、ホワイト・ノイズをひろって予測がくるう。つまりある精度以上の予測を求めれば全体が壊乱するのだ。

微分回路は、先読み回路ゆえに、それはさまざまな予感や徴候に出くわす。
これはまったく気持ちが落ち着かない精神のあり方になるだろう。いちいち細かな状況の揺れを気にして反射的に判断するような状態になるのだから。
とうぜん、予感や徴候からのインプットが繰り返されすぎれば、精神は変化についていけなくなり、過剰な焦りが生じて破綻する。そういう不安定さとともにあるのが、微分的な回路なのだろう。

だから、その不安定さを嫌って、多くの人は、この回路を閉じて、新たなものの到来を予感したり、それを受けいれる姿勢を示したりしないのではないだろうか。けれど、徴候や予感への回路を開けていなければ、新たな発見につながる思考がままならなくなるのも1つ前のnoteに書いたとおりだ。

一方の積分回路は真反対の安定さが特徴のようである。

積分回路は、過去の体験を蓄積している。従って入力にたいしては過去のデータを参照して対応する。これは安定した回路だ。新しい入力内容がまったく未曾有ということはほとんどなくて、多少とも極端な一例というくらいが関の山だろう。そこで、突変入力も、多くの例の中で一例とし埋没してしまう。

この安定した積分回路にばかり依存していたら、すべてがタイミングを外した反応になりそうだ。しかし、そんな安定した積分回路も、微分回路の失調を受け続けることで、あらゆるものが「未曾有の体験と認知されて恐怖が恐慌にまで高まる」方向に機能してしまう可能性をもっているともいう。

「微分世界」も「積分世界」も「比例世界」との関連において正当な存在の権利を持ちうるし、比例世界との風通しが悪くなると悪夢化するんだ。

と中井さんは言うが、ウェーバー‐フェヒナーの法則が過度な刺激の緩衝材として働く比例世界との関係が閉ざされるような状況に、2つのメタ世界を置いてしまえば、2つの世界のなかで失調が起こったとき、それを弱める作用が場所を欠いて、精神が不安定な状態に追い込まれやすくなるのではないだろうか。
適度に予感や余韻を受けいれるくらいの状態が精神的にはバランスが良さそうだ。こうしたあやふやなものに対して過度にこころを閉ざそうとするから、かえってここほのバランスを欠きやすくなるのではないかと思う。

では、こうしたメタ世界に対して、こころを閉ざすということはどういうことなのだろうか?

世界を索引にするとひらけるのは「積分的メタ世界」である。プルーストの世界は「積分的メタ世界」の開示である。『失われた時を求めて』を「比例世界」的に読むことも可能であろうが、あの本はひとつのみメタ世界」の索引そのものであり、書かれた文章は索引にすぎない。

だったり、

「微分的メタ世界」の開示は晦渋な形態を取りがちである。私にいえるのは詩である。詩が「メタ世界」ではなければ、どうして詩でありえよう。「詩とは言語の徴候優位的使用によってつくられるものである」--これが私の詩の定義である。

だったりと、メタ世界を記述しようとすれば、科学的に、定量的な記述や、ある程度客観的な歴史としての記述が可能な比例世界とは異なった記述が必要になる。だとすれば、こうした芸術的な感性が苦手な人は、同時に、メタ世界への苦手意識もあるのではないだろうか。

中井さんは、安永浩さんのファントム理論をもとに、このような図解を行なっている。

左右の軸は、左が自我で、右が物自体となり、上下の軸は、上が未来で、下が過去となっている。
この右側の物自体寄りの位置に、予感や徴候、余韻や索引は位置づけられ、それぞれ、上に予感と徴候のセットが、下に余韻と索引のセットが振り分けられていて、そのあいだにウェーバー-フェヒナー的な感覚が置かれている。
ようはこの位置に、上に微分的メタ世界、下に積分的メタ世界があり、そのあいだに比例世界が存在するということで、それを左側に位置づけられた「私」そして明確に言語化されてはいない無意識に近い「メタ私」が見ていることになる(もちろん、見るだけでなく身体全体で接している)。

こうした関係性のなかで、私と世界はともにつくられ/壊され続けているわけで、その認識の範囲を、私-比例世界の関係で小さくみるか、メタ私-メタ世界も視野に入れて受け止めているかで、人それぞれの創造力や精神のバランスは大きく変わってくるのだろう。

メタの部分を切り捨てれば捨てるほど、創造性を持たないロボットのような状態となり、社会の小さな変化をまともに受けて破綻しやすい精神の持ち主になるだろう。
一方、メタの部分にばかり、こころを持っていかれるとあまりに感受性ご高まりすぎて、精神が脆くなりすぎたりしてしまうのかもしれない。

ただ、創造性ということが、より重視される社会に向かっている以上、予感や余韻、徴候や索引といったものに対して、こころを開き、メタ世界につながる感覚の両回路(微分回路/積分回路)をしっかり稼働させた状態をつくることが求められているのだと思う。
プルーストの小説のような、あるいは、詩のことばのような世界の捉え方を、多くの人々ができるようになること。
それがよくいう創造性が求められる社会ということになるのだろう。

そう、思うのだけれど、果たして、創造性が求められると言っている人、それを身につけるにはどうしたらよいかと悩んでいる人は、まず自分がメタ世界に対してこころを開くことができるか?をしっかり考えてみることが必要なのだと思う。
少なくとも、そちらにこころを開くことは、不安定な物事に対して身を委ねるということでリスクもあることなのだからそれを知った上で臨む必要がある。

まあ、そういうことをデフォルトで何年もやっている僕自身からすれば、必要以上にリスクをそこに感じすぎるのは、そもそも比例世界とメタ世界の交流を閉ざしすぎていて、不健康な精神状態になりやすいのではないかと思ったりもするのだけれど。

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