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組み立てる-創造的思考のための基本的振る舞い

創造するためには、どのような振る舞いをみずからの思考に(あるいはチームのそれに)促せばいいのだろうか?

創造といっても、別に大それたレベルのものについて言ってるのではない。せいぜい日常的に何かをつくりだすことをイメージしている。
かといって、いわゆる思いつきみたいなものまで、ここでいう創造性の範囲に加えるかというと、それも違う。
何かしら複数の要素の入れ替えたり組み合わせたりしながらの試行錯誤や、論理的に構造化したり、あるいは簡単に作ってみるというレベルのプロトタイピングをして自分(たちの)感性レベルでの検証くらいは経たりといったプロセスを経ることで、ある程度のクオリティ面でのブラッシュアップはされた状態で何かがつくりだされるような、そんな創造性について考えたいわけである。

そういう創造性のための基本姿勢っていったいどういうものだろうか?と。

ジャンルが先か、作者が先か?

そんなことを思っているとき、ジャンカルロ・マイオリーノ『アルチンボルド エキセントリックの肖像』のなかに、こんな一文をみつけた。

ヴァザーリやコマニーニが独創の力を実験性と結びつきつけようとしているかたわらで、ジョルダーノ・ブルーノは1584年から翌年にかけ、ジャンル理論の構造全体と取り組んでいた。「まったくの偶然ということでもないかぎり詩が規則から生まれるのではなく、むしろ規則が詩より生まれるのである。かかるがゆえ、真の詩人の数だけ、ジャンルも、真の規則の種類も存在するのである」と。

ブルーノの考える、規則(ジャンル)と個々の作品あるいは作者(詩あるいは詩人)との関係が、ちょっと面白いなと思った。と同時に、ブルーノが考える、個々の作品あるいは作者があって、そのあとにジャンルが出来上がってくるという発想は僕の持ってる印象にも近いなとも感じた。

でも、この逆をイメージしたりする人のほうが多いんじゃないかと思う。ジャンルが先にあって、そこに個々の作者や作者がついてくる、と。
もちろん、ジャンルに追従する人もいれば、それに反発する人も出てくる。だけど、その反発する人のほうも先にジャンルが存在するから反発できるという意味では、「ジャンルありき」であることには変わらない。
けれど、創造力という観点からすると、ジャンルを前提とするのではなく、そういう参照項に期待しすぎず、みずから素材を集めてゼロから組み立てを行う力、方法を持っていてほしい。

ただ、このジャンルの問題は必ずディレンマを生む。

こうしてブルーノはディレンマに陥った。反正統の立場を、それをしも新しい伝統に変えることなく維持しうるものなのか。あるシステムの硬直を叩くと言いながら、みずから反-システムの硬直化を招かずにすむものだろうか。このブルーノからセルバンテス、ベラスケスにいたるまで、芸術は創造と批評を、ジャンルの極からも反ジャンルの極からも等しい距離を保つパロディの地平に置いた。

ジャンルがすでに多くある状況では、ゼロからの創造はむずかしくなり、ゼロからの創造をあきらめたり、パロディが横行したりするようになる。

問題だと思うのは、それでゼロから組み立てる機会を失い、創造のためにどんな振る舞いをすればよいかを経験的に学ぶ機会も同時に失うことだ。

方法依存症とでもいうかのように、それなしでは何もできない、考えられなくなる。「やり方がわからないので、できません」「教わってないのでできません」などと平気で言ってしまうようになる。

生成と構成

そうなる前に、創造のための振る舞いというのを身につけておきたいところだ。結局、その振る舞いとは、要素を集めて、組み合わせながら、意味を生成するという動作にほかならない。ただ、その要素の集め方や、組み合わせ方、そして、意味を生成させるための調理の仕方にいくつかの種類があるわけだ。

先のブルーノの話はこんな風に展開する。そして、『アルチンボルド エキセントリックの肖像』というタイトル通り、この本の主人公といえるアルチンボルドとの比較が行われる。
そこには2つの創造のための振る舞いがある。

ブルーノがプトレマイオス(トレミー)的同一の古い円環を破壊したとすると、マニエリストたちの幻想能力は未来への目的論的関心を頓挫させた。彼らは自ら作った迷路の中に逃げ込み、そこでアルチンボルドはあらゆるものを相手に戯れることができた。双方の精神とも豊穣志向なのだが、片や「生成(generation)」を選び、片や「構成(construction)」をうべなう。

生成 generation と構成 construction。2つの異なる創造のための振る舞い方。
まさにアルチンボルドの寄せ絵は、構成という創造の見本ともいえる。

ここではブルーノとアルチンボルドという比較だが、生物学の領域で比べれば、ゲーテとリンネになり、抽象画でいえば、パウル・クレーとカンディンスキーとなるかもしれない。
そして、それは動と静の関係にある。
あるいは自然物と人工物の関係か。

自然の中では成長というのは自己-調整を働かせるものであって、異常さは永続しがたい。一方、人工物は成長を模倣することもできるが、欠乏相にも過剰相にも向かうことができる。自然に為しえないことを為すことこそマニエリスムの真諦であった。いずれにしろ、成長と寄せ集めも芸術の中で互いの永続を主張することができた。

植物をはじめ、自然物のバランスのとれた生成と、人工物のバランスとは無縁な終わりのない創造を繰り返す構成。
前者においては部分は全体と不可分であることが多く、それが全体のバランスを調整する機能にもつながるが、後者の方は部分はあくまで部分であり続け、構成は理論上は無制限に拡張可能である。

プロトタイピングと実装における振る舞いの違い

成長と寄せ集めと言い換えられてもいるが、まさに既存の系のバランスを壊した上での創造が必要なら、後者の構成的振る舞いが求められる。ただし、その方法で生み出されるものはバランスと全体としての機能的統一を欠くため、新たな系の創造が見えたところで生成的振る舞いでの作り直しが必要になる。

この構成による創造と、生成による再創造の組み合わせが、実はプロトタイピングと実装における設計の違いだろうと思う。
つまり、何かを新しく創造しようとしたら、構成的創造と生成的創造の両方の振る舞いが求められるということだ。

ただし、いずれの創造的振る舞いをするにしても、みずからの考えや行動で思考や物事を組み立てる力は欠かせない。その振る舞いができないなら、何かを創造することはむずかしいだろう。

#創造 #創造性 #イノベーション

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