名もない場所にあるもの

こんな言葉に真実を感じる。とても真実など、ありそうもない場所に。

美の本質とは反復可能なものでも唯一のものでもなく、美的形式において両者が同一化されるということでもない。美の本質とは両者のあいだに存在する底知れぬ深淵のこと、つまり両者を即座に廃絶することである。

イメージをめぐる、ジョルジョ・アガンベンの『ニンファ その他のイメージ論』の中の一節だ。

イメージとは本来、複製可能で反復可能なものであるのと同時に、唯一のものの表れでもあるとアガンベンは言っている。

ということは、美の本質が「反復可能なものでも唯一のものでも」ないのなら、それはイメージと違うところにあるのだということになる。美の本質が反復可能なものも唯一のものも即座に廃絶するなら、それはイメージそのものを廃絶するものであると言える。

イメージの死のあとに

しかし、「この廃絶−−イメージの死−−は」とアガンベンは言う。

美的領域においてけっして捉えることのできないような何かではない。この廃絶はむしろ、見かけのうえでは私たちに名が欠けているように見える1つの場を開く。

そう。それは私たちに捉えられないものではない。ただし、それは名が欠けているような、何か名指しできない謎めいたものとして開かれた場を用意する。

わかりにくいものが苦手な人はこの場を避け、なかったことにする。その場合、その人は美の本質には辿り着けない。それが名のあるイメージばかりを追いかける人の運命である。

この美の本質とイメージの相容れない関係をアガンベンが指摘する前提には、次のような逆説が存在する。

「しかじかのイデアの現れである以上、イメージは唯一のものに属しているが、そのイデアの可感的イメージを表明している以上、それは複製可能性の原理自体である」という逆説だ。
これは「プラトンの『パイドロス』以来、美に関するあらゆる理論が必然的に陥らざるをえなくなっている逆説」であるとアガンベンは言う。

この矛盾はプラトンにおいてはエロースと呼ばれている。カントにおいては−−もしかするとそれが最後のことかもしれないが−−想像力は、見ることの可能性と不可能性、認識することの可能性と不可能性のあいだの働きにおいてしか定義づけることができないものとして、問題をはらんだもともとの性格を依然として保存している。あらゆるイメージは底知れぬ深淵の上に休らっており、この深淵を認識するということはカントにとっては美的判断である。

イメージが休らうのは、底知れぬ深淵の上であるということを認識することが美的判断であるとカントが言うとき、僕らの美に関する誤解とは美を表現/表明されたイメージであると考えてしまうことだろう。しかし、本質的な美とは唯一のものでなく、反復可能なものでもなく、それらのあいだで、美的なイメージが消え去る場所にこそある。

では、その場とはどこなのか?ということになる。

イメージの向こうの国

さて、アガンベンのこれらの文が書かれた論文は「イメージの向こうの国」というタイトルである。そのタイトルが登場するのが、次のような文章の中である。

唯一のものと反復可能なものとが沈むこむことによって、イメージの向こうの国がついなまなざしに対して解放される。その国にあってはもはや記憶も忘却もなく、記憶の悲歌は讃歌の出現によって中断され、両者が互いに破壊されて、人間の故郷に場を与える。

と。
「この故郷は」とアガンベンは続ける。「神秘的な次元ではなく、絶対的に歴史的な事件である」と。

それはヴァルター・ベンヤミンのいう意味での俗的啓示である。その「イメージ空間であり、より具体的に言えば身体空間である」空間のなかに、内面的人間、プシュケー、心身を備えた個人といった、近代の神話が人間的なものを構想させるべく私たちになじませるために用いてきたもののすべてが「四肢のいずれも引き裂かれずにはおらずに」呑みこまれる。だがイメージもまた、単一のものと反復可能なものとの弁証法の外にあってはもはや存在理由をもたず、最後には消滅するものでなければならない。

これがイメージの向こうの国であり、美の本質のある深淵の奥である。つまり、ありふれたイメージを拭い去ったあとにあらわれる歴史的で俗的な場所だ。

それは具体的にどこか?というと、アガンベンはこう書いている。

私たちをイメージから解放するために、私たちには絵画が与えられている。絵画はイメージの覆いを美の顔から取り去り、そのようにして美のもともとの場をあらわにする。

と。

知識の次元、思い込みの次元で生きていたら、絵には出会えず、その絵のイメージに邪魔されるのだろう。

それは多くのほかの認識でも同様なのだと思う。知っていること、理解しているつもりのことでしか、物事を見ていなければ、本質的なところになど届くはずはない。名前のあるもの、イメージが出来上がったものだけ追いかけて、それしか相手にできないのであれば、まともな思考は展開できない。

けれど、多くの人が単なる知識、名前、イメージだけに踊らされて、自分自身で何かを見出すこと、考えること、声をだすことができずにいる。
そんなつまらぬ振る舞いは早いとこやめて、あの場所に行こうとはしないのだろうか?

あの名前のない場所へ。名もない場所にあるものに自分自身で手を伸ばしてみようとは思わないのだろうか?

#エッセイ #コラム #美 #本質 #イメージ #思考

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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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